2012/6/18-23

 

2012/06/18(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:11-14 賛美 聖歌 605
 メルキゼデクの祭司職がアロンの祭司職に勝るものであり、キリストは神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたお方―完全な大祭司であると述べてきた著者は、ここで突然「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」と言って議論を中止する。その理由として「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」と述べる。「這えば立て、立てば歩めの親心」と言われているように、肉の子供は成長することを期待されているが、それは霊の子供も同じである。成長は自分の立っているところに満足しないで、上にあるものを求めることによって促進される。パウロは「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい(コロ 3:1-2)」と勧めている。
 

 

2012/6/19(火)担当 高谷満世師 サムエル記上25:14-35 賛美 聖歌485
 アビガイルは従者から夫ナバルの愚行について聞き、危機的状況を悟った。その時彼女はすぐさまダビデへの贈り物を整えて出かけていった。ダビデの下へ行く途上で非常に怒っているダビデに出会った時、臆することなくダビデと向き合い、知恵をもって語った。
 ダビデはナバルの財産を守ってきた自分の好意を無視して自分を不当に扱ったナバルに報復し、命を奪うことを正当な行為だと確信していた。それでも実際にダビデがナバルの血を流すならば、彼の手は愚か者の血で汚され、神がダビデに与えられる地位を汚すことになる。アビガイルは知恵をもってそこに訴えてダビデが怒りのままに行動することをとどめた。このことの背後に神ご自身が選ばれたダビデを守られるように働いておられたことを私たちは見ることができる。
 神は多くの人々を用いてご自分の選ばれた僕を常に守っていてくださる。常に主の守りの中に私たちも置かれていることを感謝し、今日も主に守られて歩もう。
 

 

2012/06/20 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:11-14 賛美 聖歌 589
 著者は成長することの必要について「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません」と語る。「義」とはキリストに対する信仰によって得られるものである。人間の判断する義・正しさはその時代環境や立場によって異なる。真の義は神によってのみ、明らかにされる。また「義の言葉を理解する」と言うのは、知識として義を理解しているだけではなく経験を通して義を判断する力を持つ事を意味している。パウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(ロマ 12:2)」と語っている。不断の霊的成長によって日々遭遇すれ事例に対し、神に喜ばれ、また完全なことが何であるか、即ち何が義であるかを判断しそれに進むものとされることが必要である。
 

 

2012/06/21(木)担当 高谷満世師 サムエル記上25:36-44 賛美 聖歌553
 ダビデは愚か者ナバルの態度に怒り、自分の手でナバルを殺そうとした。しかし神の哀れみによってダビデはそのような罪を犯すことから守られた。ここではこのダビデと対照的なナバルの姿が描かれている。ナバルは多くの富を持ったことを誇っていたのであろう、王の宴会にも似た宴会を催していた(36節)。しかしこれは神の目に良しとされることではなかった。妻アビガイルがダビデの下に急いで駆けつけ、知恵を持ってダビデに対面してダビデの報復を思いとどまらせたことを知らされたナバルはその場で主の裁きを受けて意識をなくしてわずか十日の後に死んだ。
 私たちは自らの成功のゆえに傲慢になり、ナバルのように愚かな罪を犯していないだろうか。自分の目には全てが成功し、誰よりもえらくなったように見えても、神の前に謙遜であることを忘れて愚かに振舞うならば、神はその不信仰と不従順を見て裁かれる。神からいただいた祝福に感謝をささげ、与えられたものを神に喜ばれる方法で用いられるよう、主に頼りつつ今日も歩もう。
 

 

2011/06/22(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ 5:11-14  賛美 聖歌 588
 また「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」と述べられている。「一人前の大人」とは善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された人である。善悪を見分ける感覚は個々の単独の出来事から生じるのでなく、突然の霊的な高揚から生じるのでもない。不断の訓練によって得られるのである。著者は12:11において「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」と述べ、パウロも「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい?テモ4:7)」と述べている。常に霊的に自らを鍛え、一人前の大人となり、神に役立つ者となろう。
 

 

2012/06/23(土)高谷由紀子師マタイによる福音書21:6−7 賛美 聖歌296
 何事も無条件に従うということは難しいものです。わたしたちは自分で理解したうえで納得できれば従おうとします。これは世の事柄に対しては正しいことです。しかしイエス様の言葉、神の言葉に対しては無条件に従うことが求められます。なぜなら、神は私たちを超えて偉大なお方であり、わたしたちは神をすべて理解できるものではないからです。神の言葉に無条件で従う時、そこに神のみ業が行われるのです。