2012/6/11-16

 

2012/06/11(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:7-10 賛美511
 ここで著者は「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と述べる。キリストは初めから神に対し従順の道を歩まれた。その結果身に受けた苦難により,地上の人間の生活条件の下で具体的に神に対する従順は何かを学ばれたのである。イザヤ書には「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。(イザ 50:5-6)」と記されている。御子は神のことばに熱心に聞き従おうとするため、嘲りと虐待に身をさらすことになるが、従順の道と不可分のものとして受け入れられたのである。
 サタンの支配する世に生きるキリスト者は、信仰に忠実に留まり、公然と信仰を告白して歩もうとするなら、多くの試みと苦難身に受けるのである。信仰告白を曖昧にするか、信仰を放棄するなら、試みや苦難から逃れ得るのである。しかし御言葉は「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう(黙2:10c)」と言っている。
 

 

2012/6/12(火)担当 高谷満世師 サムエル記上25:1 賛美 聖歌514
 サムエルの死が短く報告されている。サムエルが死んだ時、全イスラエルが集まった。サムエルの働きはイスラエル全体に及ぶ働きであった。この働きを可能にしたその力は、サムエルと神との強い関係から出るものであった。
 サムエルは不妊の女であった母ハンナの祈りによって与えられた子であった(サム上2)。祭司エリのもとで育てられたサムエルは幼い頃から主に従い、主のみ声を聞いた。神からの語りかけをまだ神の声であると認識できないほど幼い時から聞き、そして神に服従することを経験を通して学んだ。このときからサムエルは、神に仕える中ではたとえ自分の師であるエリにさえも厳しい言葉を伝えなければならないことがあり、その中での神への服従を求められることを知った。そしてサムエルは生涯、人を恐れることなく、神の導きを語り続けた。
 このように神に仕えたサムエルもその生涯を終えて主のもとへと召された。私たちも地上で命を与えられている間、あらゆることにおいて、あらゆる時に、主を畏れて主に従おう。
 

 

2012/06/13 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 5:7-10 賛美 聖歌447
 キリストは「多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられた」と言われている。キリストは御子であり、神であられた。従って完全なお方であられたのに「完全な者となられた」と言う言葉はどう言う意味であろうか。それは、民の救い主、また大祭司として完全な者となられたということである。御子はゲッセマネの祈りにおいて、神に対する完全な従順によって神の御計画―十字架と死―を受け入れられ、それによって救いの御業は完全に成就されたのである。このことによってキリストは民の救い主、また大祭司として完全な者となられたのである。従って救われるためにはイエスキリストに対する信仰だけで十分であって、なにものをもそれに加える必要はなく、加えてはならない。もちろん、クリスチャン生活にはより高い品性・倫理観等が求められるし、キリスト者はそれを求めていくべきであるが、救われるための条件ではない。
 

 

2012/06/14(木)担当 高谷満世師 サムエル記上25:2-13 賛美 聖歌501
 ダビデは逃亡中にマオンという土地に来た。そこにはナバルという裕福な男が住んでいた。ダビデがそこに来たのは羊の毛を刈る時期で大きな収穫祭であり、当時の習慣ではそれは近隣の貧しい者たちにもその恵を分かち合う時であった。また、当時はダビデの一行のように辺りをうろついている集団は土地に住む人々から略奪するのが常であったが、ダビデはそのようなことをせず、むしろナバルの財産を守っていた。それゆえに、ダビデがナバルから贈り物を期待したことは理に適っていた。ダビデはナバルに使者を送り、祝福の言葉を述べたにもかかわらず、ナバルは彼を侮辱した。それはダビデが示した親切を踏みにじる行為であり、「ダビデとは何者だ」と嘲ることによって神の選びをも拒否することであった。このナバルの行為は彼がその名のとおり(ナバルという言葉は「愚か」という意味)愚かであったことを示した。そして彼は怒りを受けて死ぬこととなった。
 神の御業を認めず、選びを認めず、祝福を分かち合うこともせず、人が示してくれた好意に対して感謝することもできない傲慢と愚かさを示す者にはそれにふさわしい報いが与えられる。愚かな者にならず、霊的な目を開かれ、神の恵みを認め、感謝する者になろう。
 

 

2011/06/15(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙  5:7-10  賛美 聖歌425
 主イエスが代価を払い成就された救いは永遠である。その救いは,ただ一度完成され,決して繰り返されず,永久に有効なキリストの犠牲の上に成り立っているのである。またその救いは、御自分に従順であるすべての人々―キリストを救い主と信じ告白するすべての人々―に対して与えられるのであって、人種、国籍、男女等による差別はない。贖い主の従順により獲得された救いは贖われる者の従順により受け取られるべきである。わたしたちは常に主に対して従順な者であるべきである。
 

 

2012/06/16(土)高谷由紀子師ルカによる福音書5:1-11 賛美 聖歌500
 主は群衆に話し終わった時、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして彼らがそのとおりにするとおびただしい数の魚がかかり、網が破れそうになった(4:5-6)。
 漁師たちは夜を徹して働いたが何もとれずに疲労困憊し、絶望していた。その時、主は沖へ漕ぎ出して網をおろして漁をするように言われた。弟子達は漁の専門家であり、この道については知り尽くしていた。主イエスといえども無経験な漁のことではどうにもならないと思ったことだろう。しかしペテロは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って主のことばどおりに実行した。その結果は大漁となった。
 人間の限られた知恵や力量や経験などに頼ることなく、ひたすら主の言葉に信頼して従うことは本当に幸いなことである。主の言葉は不可能を可能にする。