2012/7/23-28

 

2012/07/23(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙7:11-14   賛美 聖歌593
 著者は「もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。」と問いかける。レビ系の祭司は彼自身、人であり、その身に罪を持っている者であった。彼は民の罪のために犠牲の動物の血を携えて主の前に行くのであるが、自分の罪のためにもそれを携えていかなければならなかった。しかもそれは人が罪を自覚する度に繰り返されなければならなかった。このように、レビの系統の祭司制度によっては人が完全な状態に達することができなかったのである。ここに別の祭司が立てられる必要があったのである。
 

 

2012/7/24(火)担当 高谷満世師 サムエル記上31:1-13 賛美 聖歌593
 ダビデがツィクラグを略奪した者たちを討って財産を奪回して町に戻った後、サウルの死が語られる。主に選ばれ、油注がれて王とされたにもかかわらず、主に従い通すことができずに神に退けられたサウルであった。しかしこの最期を見るときに、サウルに対する変わらない神の愛と憐れみを感じる。
 サウルの死は深い感情を交えずに語られる。ペリシテ軍との戦いにおいて多くのイスラエル兵が倒れた。サウルは息子ヨナタンの死も見なければならなかった。サウル自身も深手を負い、何とか敵の手にかかって命を落とすことは逃れ得た。しかし彼自身、もう命がないことを知っていたのだろう。彼は従卒に対して、自分を殺すよう命じた。しかし彼はその命令には従うことができなかった。やはり彼も、神に油注がれた器がどういう存在であるか知り、彼には神の守りがあることを知っていた。
 結果的に神に従うことができず、それによって神に退けられたサウルであっても、神はなお彼に憐れみを注がれた。神は真実である。私たちもまた神に対して真実に歩みたい。
 

 

2012/07/25 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 7:11-14 賛美 聖歌447
 続いて著者は「祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです」と述べる。アロン系祭司職はモーセの律法の下で任命され,律法に必要不可欠なので,祭司職が変れば必然的に律法も変らねばならないのである。パウロは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです(ロマ 3:20)」と述べている。またガラテヤ書においては「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません(ガラ 3:24-25)」と述べている。
 律法は神の恵みの御業―御子の贖いの御業―が顕される以前、わたしたちを恵みに導く養育係であった。しかし完全な神の恵みが顕された今、わたしたちは律法によらず、信仰によって完全な者とされるのである。
 

 

2012/07/36(木)担当 高谷満世師 サムエル記上30:1-13 賛美 聖歌589
 サウルは敵の手にかかって死ぬことは免れた。ここにはやはり神の憐れみがあった。神に従い通すことができなかったサウルでさえも、かつての士師サムソン同様、「敵の手にかかって死ぬ」事を神は良しとされなかった。それだけではなく、死んで首を取られ、遺体を城壁に晒された後でそのサウルの姿を見つけたのはギレアドのヤベシュの住民であった。かつてサウルが彼らの窮状を聞いたときに全イスラエルの兵を集めて彼らを助けた。その戦いの勝利を通してサウルは民に王として認められた(11章)。その地で神の憐れみにより、王として最期を迎え、一度は遺体を晒されはしたがその体はとり降ろされて火葬にされ、葬られた。
 神はご自分に従わず自らの思いを押し通す人に対しては厳しい態度で臨まれる。サウルは油注がれていながら王としては実質的に退けられ、ダビデが選ばれた。にもかかわらず、神は最期までサウルの命が他人によって奪われることを守り、また名誉を保つように埋葬された。厳しさの中にも愛のあふれる神の姿を見る。愛と憐れみに満ちた神が今日私たちと共に歩んでいてくださる。
 

 

2012/07/27(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙7:13-18    賛美 聖歌404
 レビの系統の祭司制度によっては、人を完全な状態に至らせることはできなかった。そのため私たちの主がメルキゼデクと同じような別の祭司として立てられたのである。この方はユダ族出身であって、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないのである。この祭司は肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのである。この方について聖書は「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる(ミカ 5:1)」と預言している。また詩篇は『主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」(詩 110:4)』と述べている。更に黙示録には『すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」(黙 5:5)と記されている。私たちの主こそ、神によってたてられた大祭司である。わたしたちはこのお方を通してのみ神に近づくことができるのである。
 

 

2012/07/28(土)高谷由紀子師マタイよる福音書7:24-27 賛美 聖歌157
 この箇所はご在世中の主が弟子たちに語られた山上の説教と言われる箇所の一部分です。ここで主はわたしたちの人生の二種類の土台について教えておられます。その一つは砂です。その土台は雨が降り、川があふれ、風が吹くと崩れてしまうのです。一方、岩を土台としているとたとえ大雨が降り、川があふれ、風が吹いても崩れ去ることはありません。わたしたちの生涯において岩を土台とするということは御言葉を聞いて行うことだと言われます。砂を土台とすると言うことは世のもの、即ち健康、財産、権力、地位、等を人生の基礎とすることです。これらはやがて崩れ去るのです。「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(?コリ 15: 50)」と語られているとおりです。