2019/6/10-15
- 2019.06.10
- ディボーションの友
2019/6/10(月) 担当 高谷清師 ヨハ 13:31-32 賛美 新聖歌 165
ユダは主から一切れのパンを受けて暗闇の中へと出て行き、サタンの業は始動した。イエスはご自分の十字架の業が始まったことを受けて弟子たちに「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」とお語りになった。この箇所についてジョン・C・ライルは「このことばは、主がこう言われたようなものである。『わたしの十字架の時は近づいています。地上でのわたしのわざは終りました。あす、一つの出来事が起ろうとしています。その出来事は、わたしを愛するあなたがたにはどれほど心痛むものであっても、実際には、わたしとわたしの父との両方に最も栄光を受けさせるものなのです。」(ライル福音書講解ヨハネ3聖書図書刊行会1987)P313」と語っている。弟子たちにとってイエスの十字架の死は心痛むものであった。しかし復活と聖霊降臨によって十字架こそ救いであること、神の愛の極みであること、即ち、神の栄光であることを知るのである。
2019/6/11(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書7:8-12 賛美 新聖歌373
イスラエルは神の目から見て諸外国、異邦人と何ら変わりのないものになっている。当時の国際情勢の中でイスラエルのリーダーがとった政策は、時々に応じて力ある国にすり寄って何とか姑息に生き延びようとするものであった。自らのよって立つところを確固として主張することなく、日和見主義で場当たり的な対処だけでその場をやり過ごそうとする。政治的な自立性を失うだけではなく、宗教的にもイスラエルの神との関係において禁じられてきた、イスラエルにとっては全く無縁であるべき偶像礼拝の諸要素を受け入れる。もはや主なる神との関係の中に生きる選びの民としてのアイデンティティを完全に失っている。それだけではない。外国に食い尽くされ、力を失ってもそのことにすら気づかず、いまだに自分を高く評価し、高慢な態度を保ち続ける。愚かに振舞った果てには頼りにしていた諸外国を用いた神の網にかかる。
神から離れ去る者の罪の恐ろしさはその状態に気づくことができないということであろう。気づかぬままに状況はどんどん悪くなり、異邦世界の影響を受け、神の民としての特性を失う。気づかぬうちに神から離れることがないよう、聖霊の助けによって神との交わりを深く持ち続けよう。
2019/6/12(水) 担当 高谷清師 ヨハ 13:31-32 賛美 新聖歌 372
パウロは「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。」(?コリ2:6-9)と述べている。神は不義なる者を義とするための、汚れた者を聖なる者とするための、愛されない者を愛される者とする為の神の知恵であり、神の栄光の現れである。
2019/6/13(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書7:13-16 賛美 新聖歌343
「なんと災いなことか」という叫びがまず響く。どれほど偶像礼拝に陥って罪を犯し続ける民であってもなお神は救おうとなさる。しかし相変わらず彼らは偽って語る。神に助けを求めるが、それは自分の要求を充足させる手段に過ぎない。このような「信仰心」は神への服従ではなく反抗である。助けを求め、祝福だけを期待するが、自分の役に立たない神には畏れを示さない。本当の意味で神の本質を認めることはない。そのように「神」を利用するだけの信仰心を持つ民はバアル礼拝に向かい、かつてカルメル山で自分の身を傷つけて祈ったバアルの預言者たちのようにイスラエルの民もふるまう。
祈り求めるとはどういう姿なのだろうか。イスラエルの民は祈願はしたが、心を主にささげてへりくだって主に明け渡そうとはしなかった。恵みと救いを要求はしたが、神を畏れ敬い、崇めなかった。今私たちはこのような状況に陥っていないだろうか。
2019/6/14(金) 担当 高谷清師 詩 45:7 賛美 新聖歌 374
続いて詩人は「神よ、あなたの王座は世々限りなく/あなたの王権の笏は公平の笏。」と詠う。申命記は「裁きを曲げず、偏り見ず、賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。ただ正しいことのみを追求しなさい。そうすれば命を得、あなたの神、主が与えられる土地を得ることができる。」(申 16:19-20)と述べている。指導者は日々裁きを求められる。裁きを行うに際しては、自己の利益、保身等、多くの誘惑が脳裏をよぎる。しかし、神によって立てられた指導者はそれら一切の利得関係を捨て、ただ神の御言葉のみに立ち、公正に行わなければならない。今日を生きるキリスト者もまた、私情を捨て、御言葉のみに立って公正な歩みをすることが求められている。
2019/6/15(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 15:8-10 賛美 新聖歌 359
イエスは「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と話された。ドラクメは1日の賃金に当たる額であり、女にとって非常に大切なものでした。もしそれを失くしたなら、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜すのです。そしてそれを見つけた時の喜びは大きく、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。神にとって人は大切な存在であり、一人の罪びとが悔い改めるなら、神の国にとって大きな喜びです。
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