2018/3/28-31

2018/3/26(月) 担当 高谷清師 ヨハ 7:45-52 賛美 新聖歌 242
 イエスを捕らえるために遣わされた下役たち空手で帰って来た時、祭司長たちやファリサイ派の人々は、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。マルコは、イエスがカファルナウムで安息日に会堂に入って教えられた時「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マコ 1:22)と記している。これに対してファリサイ派の人々は「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と言った。「祭司長たちやファリサイ派の人々」は聖書を学び、「聖書を知っている」と自認する人々であった。彼らはイエスの前に自分の知識を持って立った。一方、「群衆・人々」は「深い知識」を持たず、虚心にイエスの前に立った。ヨハネは『イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。』(ヨハ 4: 44)と記している。御言葉の前に立つとき、虚心坦懐な心をもって聞こう。

2018/3/27(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:23-24 賛美 新聖歌154
 神と私たち人間との適切な距離とはどのようなものだろうか。クリスチャンである私たちは日々神との親しい関係において、主の臨在を感じながら歩みたいと願う。祈りや賛美を通して神の御前に出る。さらに私たちの内に住まわれる聖霊によって日々変えられている。それと同時に神は天と地を満たす方であることもみ言葉を通して知っている。今日、聖霊の働きについて強く語られる時代にあって、私たちは神が近くにおられることを感謝しつつ歩んでいる。この中で忘れてはいけないこともある。それは、私たちは神に近く歩む恵みを与えられているが、神と本質的に同じ存在ではない、私たちは神ではないということである。エレミヤが体験したように、預言者として語る言葉は外側から彼を捉え、彼に言葉を与えて語らせる。エレミヤ自身の思想を夢に見て語ったわけではない。
 神と近く歩ませていただいている大きな恵みを感謝しつつ、天地を満たしておられる神の偉大さを知り、人間である私たちとは本質的に異なる神のことばを真摯に受け止めてそれを取り次ぐ者でありたい。

2018/3/28(水) 担当 高谷清師 ヨハ 7:47-49 賛美 新聖歌 181
 下役たちの「今まで、あの人のように話した人はいません」という報告に対して、ファリサイ派の人々は「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」と言った。ファリサイ派の人々はイエスをメシアと信じない根拠として、第一に、議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいないことを挙げている。今日、日本において福音が伝えられる時それを拒む理由として多くの日本人が挙げる点である。主は「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタ 7:13-14)と教えている。救いに至る道は多数決ではない。神の啓示と聖霊の導きである。

2018/3/29(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書23:25-29 賛美 新聖歌366
 エレミヤの同じ時代の預言者に対する彼の厳しい批判は続く。当時多くの自称預言者達が夢に基づいて神のことばとしての預言を取り次いでいた。驚くことにエレミヤはこのような夢の解き明かしの預言をする者たちを、彼らは欺き偽る預言者だと批判し、彼らこそが民を惑わしていると述べる。真の神は言葉をもって預言者の生涯に介入し、人びとに迎合する言葉ではなく、必要に応じて焼き尽くす火のように罪と汚れを清めるための悔い改めを促す言葉を語るとエレミヤは述べる。
 今日でも「預言をする」ことは人々の心をつかみ、憧れを起こさせる。しかし神のことばを託されて人々に語るということは、自分の思いを投影した夢や幻を安易に解き明かして語ることではない。もちろん聖書において夢や幻の解き明かしを通して神の御心が明かされることはあり、それを全否定するのもまた間違いである。しかし、なお、神と人間の本質的な違いを聖霊の導きにおいて正しく認識し、預言を語る時に畏れと大きな責任をもって語らなければならない。

2018/3/30(金) 担当 高谷清師  詩 37: 7 賛美 新聖歌 222
 詩人は「怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。」と語る。神を信じないで悪を行う人を見て怒り、憤ってはならない。怒りや憤りは人を罪に導くからである。私たちが日常生活を送る世は、サタンの支配下にあり悪に満ちている。私たちはそのような罪の世に在って罪の生活を送り、死んでいた者であったが、神の憐れみと恵みによりキリストの血によって義とされ、世に対してキリストの救いを伝える使命を与えられた者である。主は「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:43-45)と教えておられる。宣教の業は愛によってのみ、可能である。

2018/3/31(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 23:39-43 賛美 新聖歌 32
 イエス様が十字架に架かられた時、イエス様と一緒に二人の犯罪人が十字架に架けられていました。そのうちの一人は自分の罪を悔い改めることをせず、議員たちと同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と、イエス様を罵っていました。これに対し、もう一人の犯罪人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」とたしなめ、更に「この方は何も悪いことをしていない。」と言い、イエス様に向って「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。それに対してイエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。
 この記事から、私たちが御国に受け入れられるために求められるのは悔い改めと信仰であることが分かります。罪を悔い改め、信仰によって歩みましょう。”,,649″