2014/5/19-24

2014/5/19(月) 担当 高谷清師 ?コリ7:15-16賛美 聖歌501

 更にパウロは、信者である者と信者でない者の夫婦で信者でない相手が離れていく場合について取り上げる。この場合には「去るにまかせなさい」と言う。そして「こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません」と語る。そしてパウロは神が私たちを救いの恵みに召されたのは「平和な生活を送るように」であった。
 この箇所についてレオン・モリスは「パウロの要点は、神は最も広い意味で「平和」と言えるような生活を送るよう、信仰者を召されている、ということである。信者・未信者間の結婚に関するこの種の問題に関して、どこで線を引くかは、結局それが「平和」の一助になるかどうかで、決まってくる。ある場合は、それは異教徒の配偶者との同居を意味するし、別の場合は、結婚は終わりだ、とする異教徒の配偶者の決心を受諾することを意味する。どちらの場合も、背後にある「平和」への心遣いは、共通している(ティンデル聖書注解コリント人への手紙第1P127−128いのちのことば社)」と述べておられる。聖霊の導きを求め、神の御旨を知り、それに従って歩もう。
 

2014/5/20 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上10:1-13 賛美 新聖歌103

 長い紙幅を割いて語られてきた系図が終わり、歴代誌はサウルの死とダビデの即位から歴史を物語り始める。ダビデはサウルの家のものではなかったので、正当な王位継承者ではなかった。しかし、ダビデがイスラエルの王になる前に戦いにおいてサウルは死んだ(10:5)。さらに歴代誌はサウルだけではなく、彼の三人の息子らとサウルの家がすべて絶えたことを報告している(10:6)。つまり、ダビデは血を流して不当な手段でサウルから王位を奪ったのではなく、サウル王権の正当な継承者がだれもいなくなった時に、主によってイスラエルの王とされたのである。私たちはサムエル記からも、詩編に収められたダビデの名が記されている詩からもその人となり、ダビデの生涯について多くを知っている。歴代誌を読むときにもこの私たちがよく知っているダビデのイメージをもって本書に向き合うことは避けられない。しかしこの書においてのダビデの役割は何よりも神殿祭儀を築いた者であるということを知り、読み進めていきたい。
 
2014/5/21 (水) 担当 高谷清師 ?コリ7:15-16 賛美 新聖歌396
 そしてパウロは「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」と語りかける。救いの恵みにあずかった者は信者でない相手に対して、信仰を持つことを願って、祈り、様々な働きかけをするであろう。このような働きかけをするとき、その人はそれが成就する強い願いを持っている。しかし、私たちは人を救うことはできない。人を救うことが出来るのは唯神だけである。それ故、相手が離れていくことを望むなら、それを受け入れるべきである。「この人を信じさせてみせる」などと言うのは傲慢から出るのである。信者でない相手が離れていくことを望んでいるのに、結婚に執着するなら後日大きな代償を求められるであろう。謙虚に御言葉に従おう。
 

2014/5/22 (木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上10:1-13 賛美 新聖歌385

 再び10章を学びたい。サウルについて歴代誌は多くを語らない。そしてここで語られているサウルは肯定的には評価されていない。サウルの死は主に背いたためであり、正しい方法で神のことばを聞かず、禁じられていた霊的な手段をもってことを知ろうとしたためであると短く、明瞭に記されている。さらに、戦場で戦いに敗れて死ぬこととなったサウルの死に関して、14節には「彼は主に尋ねようとしなかったために、主は彼を殺し…」と明言されている。事実上サウルがどのような死に方をしたとしても、最終的に事の背後におられ、サウルを死にいたらせたのは神であるといわれている。
 主に従うことは生涯の一時期にだけ要求されることではない。主の言葉に答え、従って主とともに歩み始めるときがあり、そしてこの服従は生涯を貫いて維持されるべきものである。昨日主に仕えたならば、その事実によって後の生涯が保障されているのではない。常に神のことばに従い、神の導きに従い、神の方法に従って神の御心を聞き、主とともに歩む生涯を今日も続けていこう。
 
2014/5/23(金) 担当 高谷清師 ?コリ7:17-24  賛美 新聖歌281
 この箇所でパウロは結婚問題から進んで、召された者の生き方について述べる。神は人を御心のままにいろいろなところから召される。割礼を受けている者からも割礼を受けていない者からも、奴隷であった人からも自由な身分の者からも、・・・。この人々に対してパウロは「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」と語る。「歩む」という言葉についてレオン・モリスは「歩むということは、クリスチャン生活を絶えず成長しながら生きる、という意味の、パウロの好んだ隠喩的表現である(ティンデル聖書注解コリント人への手紙第1P127−129いのちのことば社)」と述べている。
 神は様々な家庭的、社会的責務を負う人をご自分の自由意思によって救いの恵みへと召されたのである。従って召された私たちは、召された時の責務を負いつつ主に仕えていくのである。自らに与えられた責務から逃避することなく、主の助けを祈り求め、課された責務を全うしよう。
 

2014/5/17(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ5:18-20  賛美 新聖歌 359

 キリスト者とは、神が尊い御子の血潮をもって贖い、ご自身のものとしてくださった者である。従ってキリスト者は神の支配の中にある。だからと言って地上を歩む生涯が平穏無事というわけではない。多くの人々が遭遇する災害、病気等、キリスト者も遭遇する。それだけではなく、キリスト者故に遭遇する試練も多い。日本の歴史においてもキリスト者故に受けた迫害は激烈なものであった。多くの聖徒が殉教の死を遂げた。しかし迫害者は聖徒の肉の命を奪うことはできたが、キリストの贖いの恵みによって与えられた永遠の命を奪うことはできなかった。私たちが真に畏れるべきお方は、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方、神である。