2014/5/12-17
- 2014.05.12
- ディボーションの友
2014/5/12(月) 担当 高谷清師 ?コリ7:10 賛美 新聖歌206
次いでパウロは既婚者について語る。「妻は夫と別れてはいけない」ということである。続いて「こう命じるのは、わたしではなく、主です」と述べて、離婚の禁止はパウロから出たことではなく、主から出たことであることを示す。
このことについて主はファリサイ派の人々の質問に答える形で「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。(マコ 10:6-9)」と語られた。更にこのことについての弟子たちの質問に答えて「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。(マコ 10:11-12)」と教えられた。
今日の社会においては、離婚は以前に比べて激増している。現代社会の風潮ともいうべき現象である。しかし聖書によれば、結婚は神から発する祝福である。神の御心を知る者とされたキリスト者は祈りをもって神に従い、愛と喜びに満ちた結婚生活を建設してゆくべきである。
2014/5/13 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上8:1-40 賛美 新聖歌254
ここで再びベニヤミンの系図が記されている。この系図で目立っているのは、ベニヤミンが南王国と深くかかわっているということである。また、末っ子のベニヤミンの系図が最後におかれていることも納得のできる順序である。このリストの中にはサウルの名が出てくる(8:33)。サウルの息子の中に「エシュバアル」という名がある。これは、「バアル(異教の神名)の男」という意味であるが、この人の名はサムエル記においては「イシュ・ボシェト(恥の男)」としている。
歴代誌はダビデを最初のイスラエルの王としている。しかし、その前に生きたサウルも系図の中にとどめている。それと同時にサウルの息子の名が異教との関連を示す名であったことを隠してはいない。神は正しいこと、隠したくなるような好ましくない部分も、人間の営みの中でしっかりとみておられる。神の前に隠すところなく、今日を歩もう。
2014/5/14 (水) 担当 高谷清師 ?コリ7:11 賛美 新聖歌196
続いてパウロは既に別れてしまった人々に対して語る。妻に対しては「再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい」と。また夫に対しては「夫は妻を離縁してはいけない」と。これは先日引用した主の教え「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。(マコ 10:11-12)」に合致する。
長い結婚生活においてはいろいろな問題に遭遇し、困難に行く手を阻まれるような状態に陥るかもしれない。しかし主は「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハ16:33)」と語っておられる。私たちのすべての罪を負って十字架に架かり、死んで葬られ、死に打ち勝って甦ってくださった主のもとに、すべてに対する勝利の力がある。夫婦が力を合わせて祈るなら、克服しえない困難はない。
2014/5/15 (木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上9:1-44 賛美 新聖歌385
いよいよ系図の最終部分に入る。ここでは捕囚の後の人々について名が記されている。これもまたすべての帰還民を含む完全なリストではなく、祭司とレビ人に焦点が合わされている。これは帰還後に時を経て神殿が再建され、祭儀が回復されるための準備となっている。
ところで、歴代誌は書頭の系図の最終段階に盛り込んだ捕囚後の人々のリストを記すにあたり、捕囚として民が連れ去られた原因は「ユダは神に背いたため」(9:1)としている。神に背くことを歴代誌は罪であるととらえている。そしてこの罪こそが契約の民であり、神との特別な関係にある民が国を失い、外国の支配下で真の神を自由に礼拝することもできなくなるという事態を招いた原因であったという。ここを真摯に受け取る時、「神に従う」ということが私たちと神との関係の基礎においてどれほど重要であるかといことを思い起こさせられる。『これくらいの不従順やわがままなら神様は見逃してくださるだろう』という甘えが私たちの中にないだろうか。神は神とともに歩みますと約束した人々に対して、神のことばを通してご計画と御心を知り、それに従うことを今日も求めておられるのである。
2014/5/16(金) 担当 高谷清師 ?コリ7:12-14 賛美 聖歌273
パウロはまた信者である者と信者でない者の夫婦について取り上げる。その在り方について語るに先立って「主ではなくわたしが言うのですが」と断る。これは主の教えに、このケースに関する明確な教えがないためであって、これがパウロの人間的な考えに基づくものであって、神的起源と権威を持たないと言っているのではない。この教えもまたパウロのうちに内在し給う聖霊によるのであって、神的起因と権威を持っていると受け取るべきである。
先ず、信者である者と信者でない者の夫婦で、信者でない相手が一緒に生活を続けたいと思っている場合には、離縁してはいけないと言っている。その理由として「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」と語る。「彼の神、主は、ただダビデのゆえにエルサレムにともし火をともし、跡を継ぐ息子を立てて、エルサレムを存続させられた(?列 15:4)」と記されているように、神との交わりからあふれる祝福は、直接の受領者だけに制限されるものではなく、他者にも及ぶからである。主もまた「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(ヨハ7: 38)」と語っておられる。主に在って祝福の源とされよう。
2014/5/17(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ5:18-20 賛美 新聖歌 359
イエスが悪霊に取りつかれた人を解放された。彼はイエスと一緒に行きたいとしきりに願ったが、イエスはそれを許されず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(5:19)と言われた。主イエスは御業によって解放されて救われたこの人が証しするように日々の生活と社会の中へと戻された。彼が家庭の中で神の恵みと憐れみを示すことを望まれたのである。この男は帰って行って証をしたので、主の御業はますます広まり、人々は皆癒された。
キリスト者にとっては自分の家庭や生きる場が証しの場である。ここに真の主の弟子の生き方がある。
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