2021/8/9-14

 2021/8/9(月) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 新聖歌 372

 パウロはキリスト者―神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている―として身につけるべき徳について述べる。「慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」と。この箇所について大隅啓三師は「ここに列挙されている徳目表を見て、容易に気がつくことは個人の能力に関することに触れられていないということである。たとえば、「賢明でありなさい」とは言われていない。賢明さとは特殊な能力である。だれにも与えられているとは言いがたい。それを要求されるのであるならば、平凡なわれわれは引きさがらざるを得ない。しかし、幸いなことであるが、ここに列挙されたものはその気になれば万人が身につけることのできるものばかりである。著者はわれわれにないものねだりをしているのではない。ここにわれわれの安心があり、また積極的に人々と交わる勇気が与えられる根拠がある。」(説教者のための聖書講解No4355日本基督教団出版局1983)と述べておられる。キリストによって新しくされた者としてこれらを身に着けて行こう。

 

2021/8/10(火) 担当 ラウジー満世師 ハガイ書2:1-5 賛美 新聖歌145

 神殿建築が始まってしばらくして、ハガイは再び語った。人々は神の言葉に応えて意を決して神殿建築を始めたが、工事が進むにつれて過去の壮麗な神殿比べて全く見劣りする神殿しか建てられないということが彼らの目に明らかになった。がっかりしてやる気を失ってしまいそうな人々を鼓舞して「勇気を出せ」と主は言われた。建築中の神殿は「無に等しい」が、それが捕囚から帰還した民の力であった。過去の繁栄を伝え聞いていた人々、記憶に残している人々にはこの現実を突きつけられるのは酷であった。しかし神は彼らを励まされる。かつて民が自由を得た出エジプトの救いの体験の時に与えられた契約は民と共にあり、そこに神の霊がとどまっておられるのだ。

 自分の能力が衰えている、かつての地位を失ったと自覚する時には心が落ち込む。しかしその真っただ中で神が居て下さるのだ。ここに力の源がある。私たちの力が衰えても、変わらぬ全能の神、真実の神が居て下さる。この神に頼って勇気を出せることを感謝しよう。

 

2021/8/11(水) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 新賛美 新聖歌 238

 続いてパウロは「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」と語る。私たちは日常生活における対人関係において、たとえ兄弟姉妹であっても、ゆるし得ない事柄に出会うのは日常茶飯事である。しかし、ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(一ヨハ 1:7)と述べている。罪を犯し、神に逆らい、神を罵っていた者の為に最愛の御子を十字架につけ、その血によってすべての罪を赦し、神の子としてくださったのである。それ故に私たちは自分に罪を犯し、赦し得ないものをも許すべきである。その赦しの力はキリストの十字架にある。日々十字架を仰ぎ赦しを与える御子の十字架の力によって歩もう。

 

2021/8/12(木)担当 ラウジー満世師 ハガイ書2:6-9 賛美 新聖歌281

 神殿の建物は貧弱ながら再建されても、そこに置かれるべき祭具はない。神は驚くべき方法でそれを備えて下さるという。諸国を揺り動かして諸国の財宝をこの神殿に満たすと言われる。神が造られた世界のすべては、金も銀も神のものであるという驚くべき宣言がなされる。昔の神殿にまさる栄光がこの神殿に与えられる。さらに平和まで与えられる。神の与える平和、シャローム、とは欠けた点がない状態である。神にあって満たされた平和が実現される。これらのメッセージは厳しい状況において神殿再建に従事する彼らにとって大きな支えであった。

 困難な状況を目の前にするとき、私たちの支えは神の言葉である。その実現がすぐに与えられるのか、将来まで待たなければならないのか、様々なケースがある。しかし信じる者の心に力を与え、神の栄光のために前進させる力は神の約束であり、真実であり、臨在である。私たちの歩みも主の臨在と約束によって支えられるものでありたい。

 

2021/8/13(金) 担当 高谷清師 詩 62:2-36-7  賛美 新聖歌 191

 詩人は「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。/神にのみ、わたしは希望をおいている。」と詠う。私たちは試練に直面する時、どのように祈ればよいかさえも分からなくなることがある。エレミヤ書には「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレ 29:11)と記されている。詩編39篇の作者は「わたしは黙し、口を開きません。あなたが計らってくださるでしょう。」(詩 39:10)と語っている。パウロは「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ 8:26-28)と述べている。神は善にして愛なるお方である。御前に黙し、神の答えを待ち望みつつ歩もう。

 

2021/8/14(土) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 新聖歌 214

 続いてパウロは「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」と語る。この箇所についてカルヴァンは「すべての徳がこの中に含まれるということである。すなわち、愛はわれわれの全生活の、そして、われわれのすべての活動の真の規準であり、従って、これによっていないものはすべて、他の点でいかに外見がよかろうと、不完全であるからである。これが、愛がここで「完全の絆」と呼ばれる理由である。われわれの全生活において、何事も、愛を目ざし愛に向けられていないならば、十分制御されているとはいえず、われわれが企てるものはすべてまさに浪費であるからである」(カルヴァン新約聖書注解ピリピ・コロサイ・テサロニケP150新教出版社1970)と記している。パウロは「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(?コリ 13:1-3)と述べている。常に神の愛に満たされ、愛によって歩もう。