2017/6/19-24

2017/6/19(月) 担当 高谷清師  ヨハネ4:15-18 賛美 聖歌 222
 イエスの「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」という言葉を聞いた女はイエスに「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と求める。これに対してイエスは「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われた。女が「わたしには夫はいません」と答えるとイエスは「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」と語られた。このことから彼女の不道徳な生活と、人目を避けなければならなかった事情が分かる。人々から浴びせられる冷たく刺し通すような視線にさらされていた。このような彼女を周囲の人々は人間としての尊厳をもって接することをしなかった。その魂の孤独さは深刻であった。このような彼女に主は語りかけられたのである。主は「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ 5: 32)と教えておられる。私たちも罪に悲しむ人々に寄り添う者となろう。

2017/6/20(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書4:23-31  賛美 新聖歌18
 預言者が視野を広げて見た世界全体の様子が述べられている。光がなく、すべてが震え、生き物が消え失せ、植物が枯れる。それらは偶然起こったのではなく、主の御前に起こったと述べる。すなわち神の裁きとして起こったと言われる。神の裁きは全世界に影響を与えるほどに徹底している。神は一時的な感情に流されて裁きを行われるわけではない。神ご自身がこの裁きを定め、またどれほど民が嘆き苦しもうとも決して後悔なさらないと言われる。再び目をエルサレムに向けると、そこには既に神の裁きとして送られた敵が攻撃を仕掛け、神に背き続けてきた者たちの悲鳴が聞こえるようである。その時に至って、民にできることはもう何もない。
 裁きを送り、民の苦しみにも後悔しない神は私たちが信じている神ではないのだろうか?旧約の神は新約の神とは違うという言葉で片づけられるのだろうか?愛の神がここまでの厳しさをもって民を罰することを選ばれたのは、民の背きの罪の故であったことを忘れてはならない。今、私たちは神に従って歩んでいるだろうか。自分を省みたい。

2017/6/21(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 4:10-15 賛美 新聖歌 434
 イエスはサマリアの女の状態を語ることによってご自分が全知のお方であり、人の心を見抜く者であることを明らかにされる。サマリアの女は初対面のイエスが自分のことを言い当てられたのを見て「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と告白する。更に町に行き「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(4:29)と語っている。サマリアの女はこの時まで自分の罪を自覚するよりは、不道徳な生活に対して注がれる冷たく刺し通すような視線に対して反発を覚えていたかもしれない。しかし、イエスを知ることによって自分を知ることが出来た。癌は相当進行しないと自覚症状がないという。そして自覚症状が現れた時には既に手遅れになっていることが多いという。早期発見によって治癒率は高まるという。そのために検診が行われている。神を知ることによって罪を知り、救いを求めるようになるのである。主の御名を伝えよう。

2017/6/22(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書5:1-6  賛美 新聖歌396
 全く希望のない徹底的な裁きを神がエルサレムに行われると語られた時、神が裁きを撤回して民を赦してくださることがあり得るかと問われる。一人でも正義を行う者がいればエルサレムを赦すとの神のことばを受けてエレミヤは探し求めるが、身分の低い人から高い人まで―あらゆる人を―尋ね求めても見いだせなかった。たった一人の正しい人もいない状況において、言い訳は通用しない。神に選ばれた民であり、長い歴史を通して神に従うことを学んできたはずの民の中に一人も正しい者が見られないという。
 「神に選ばれた」、あるいは神の関係の中に生きる者だという事実は、神の裁きを免責されるという特権階級にあるということではない。神の愛を知り、神との関係の中に生きるものだからこそ、神の律法を守り、神に従う歩みが求められているのである。

17/6/23(金) 担当 高谷清師  詩編33:4 賛美 新聖歌 354
 「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい」と詠ったダビデは、その理由として、先ず「主の御言葉は正しく、御業はすべて真実。」と語る。神の真実についてパウロは「わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」(?テモ 2: 13)と述べている。また、小畑進師はこの箇所について「今日の人の喜び歌うところが、いかに堕落しているかが指摘されているように聞こえるではありませんか。主のことばが正しいから、主のわざが真実であるから――。まことに、人の価値は何を喜ぶかによって決められるとすれば、いささかの地上的な利得や人間的な栄誉を謳歌している者と、主のみことばとみ業を力をこめて喜び歌う者との比較は大きな教訓です。」(小畑進 詩篇講録上P397いのちのことば社2007)と述べておられる。み言葉の真実をこそ、自分の喜びとする者でありたい。

2017/6/24(土) 担当 高谷由紀子師  ルカ15:1-6 賛美 新聖歌 217
 イエスは「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」と語られた。また「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ 19:10)と語っておられる。そして主は「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ 15:7)と述べておられます。これらの御言葉から、主が魂の救いをいかに望んでおられるかが分かります。主の心を自分の心として福音を証しすることに励みましょう。”,,724″