2017/6/12-17

2017/6/12(月) 担当 高谷清師  ヨハネ4:10-15 賛美 聖歌 273
 イエスは「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と語られる。ヨハネはイエスが祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に語られた「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハ 7:37-38)という言葉を記している。そして「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」(7:39)と記している。先日私たちは主が天に帰られた後、約束の聖霊を賜ったことを記念して聖霊降臨記念の礼拝に与った。主イエスを信じる者に与えられる聖霊は決して渇くことのない命の泉である。

2017/6/13(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書4:13-18  賛美 新聖歌396
 北から押し寄せる敵は素早くエルサレムにまで達する。それは戦車を擁する軍隊である。神の裁きとして送られる軍隊との戦いが始まる。「ああ、災いだ。我々は荒らし尽くされる。」(14:3)という民の嘆きに見るとおり、逃れようのない滅びが迫った状況である。それは神から送られた災いであった(4:6)。ではこの現実の責任は神にあるのか?しかし預言者が悔い改めを迫る対象は民である。なぜなら、神がこの様な災いを送るに至った原因は民の道であり、民の仕業だからだ。
 私たちの生活においても神の恵みではなく、苦しみや災いが起こる。その時私たちは神を責めたり、その状況は神の訓練であると考えたりすることがしばしばある。しかしその原因は私の背きの罪ではないかと思いいたることは稀であるように思われる。クリスチャンとして神に従うことが求められているということを覚えて、自らの神と共に生きる責任を思いつつ歩みたい。

2017/6/14(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 4:10-15 賛美 新聖歌 392
 主は「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と語っておられる。私たちに与えられる水は私たちの内で泉となり、私たちに永遠の命を与えるだけでなく、わき出ると言われている。エゼキエル書47:1−12には「命の水」の預言が記されている。湧き出た水は流れとなり、世を潤し、命と実りを豊かに与える。
 小林多喜二の母・セキの半生を描いた三浦 綾子による小説「母」を読むと、その家庭、また多喜二の生まれ育った集落は、その日の生活にも事欠くような貧しい状態であった。しかし家族一人一人、村人一人一人のあいだは愛と思いやりに満ちた豊かなものであった。現今はどうであろうか。経済的には豊かになったが、現職警察官による妻子殺害疑惑、学校、一般社会における執拗ないじめ、虐待、詐欺、暴力等々、人心の荒廃は著しい。これを癒すものは主イエスの与えられる命の水以外に無い。命の水の水路は教会であり、キリスト者一人一人である。農村では田植えを前にして水路の点検整備を行う。私たちも自らを吟味し、良き水路となろう。

2017/6/15(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書4:19-22  賛美 新聖歌341
 災いが北から迫り来る状況で「わたしのはらわたよ、はらわたよ。/わたしはもだえる。/心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。わたしは黙していられない。」(4:19)という、痛々しい預言者エレミヤの叫びを聞く。神からの裁きに関して、エレミヤは部外者として傍観していたわけではない。エレミヤもまたエルサレムの民として裁きを受ける民の一人であった。同胞が悔い改めることなく裁きを受ける姿を見て彼の心は嘆きで満たされる。また神のことばを告げる者として、特別な選びの民に対して災いを下さなければならない神の嘆きと痛みをも預言者は体験している。エレミヤは神を知る知識によってこの神の嘆きを知った。対照的に、民は無知であるがゆえに神の嘆きを知らず、悪を行い続ける。
 聖書で語られる知恵は「神を知ること」に始まる。この知恵こそが神の思いを明らかにし、神に従う道を開く。真の知恵を求めたい。

17/6/16(金) 担当 高谷清師  詩編 33:1-3 賛美 新聖歌 18
 前篇を「神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。」(詩32:11)と言う句で締めくくったダビデは「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。琴を奏でて主に感謝をささげ/十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。」と詠う。ダビデの喜びは「背きを赦され、罪を覆っていただいた」ことによる。パウロは「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。」(?コリ2:9)と述べている。私たちはアガペーによる御子イエスの十字架の贖いの恵みによって罪の赦しと永遠の命の恵みに入れられている。それは私たちが期待することも想像することもできなかった恵みである。これを思う時、私たちが神に向って発し得るのは感謝と讃美のみである。人には様々な願い求めがあるであろう。しかし主イエスは「それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタ 6:32-33)と教えておられる。常に喜びをもって感謝と讃美を献げよう。

2017/6/17(土) 担当 高谷由紀子師  マタイ 21:12-13 賛美 新聖歌 197
 イエスが神殿に入って行かれた時まず目に入ってきたのは、礼拝のために神殿に上ってくる人々を相手に、両替をしたり鳩を売って暴利をむさぼっている人々の姿でした。この光景を目にされたイエスは、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒し、「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」と言われました。神殿は神の臨在なさる聖なる場所であり、神を礼拝する場所であって、肉の欲を追及する場所ではありません。教会においては霊と誠をもって礼拝を献げましょう。”,,777″