2015/3/2-7

2015/3/2 (月) 担当 高谷清師  ?コリ14:26-33  賛美 新聖歌 340
 新共同訳は26節〜40節までに「集会の秩序」と言う見出しを付している。当時の教会の集会では賛美が歌われ、教えがなされ、啓示が語られ、異言とその解釈が語られる等、霊の賜が豊かで恵みに満ちたものであったことが想像される。しかしコリント人たちは各自に与えられた賜物を誇り、無秩序に語り、集会の混乱を招いていたことが本書のこれまでの叙述から見て取れるのである。そこでパウロは「すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです」と教える。
 各自に与えられている賜物は素晴らしいものである。それらは自己顕示ではなく、そこに集まった人々の信仰の成長のために秩序をもって用いられるべきである。人体において塩分は生命維持に不可欠なものである。しかし過剰に摂取すれば動脈硬化、高血圧、そして様々な病を誘発する様に、霊の賜も秩序をもって用いられることが大切である。

2015/3/3(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下25:14-16  賛美 新聖歌38  
 アマツヤの治世の後半について記されている。前半に記されているエドム討伐の際には、神の人の言葉に耳を傾けて勝利を得た。しかしこの勝利に終わった戦いののちに、彼はエドムの偶像礼拝を持ち帰ってしまった(25:14)。これは明らかに十戒に背くことであった。主はこのときにも預言者を遣わして警告をされた。しかし以前(25:9)とは対照的にアマツヤは預言者の言葉に全く耳を傾けなかった(25:16)。この態度はすでに彼が神に対して心を閉ざしていることの表れである。それと同時にこの「聞かない」という態度によってさらに心が頑なになり、神から遠ざかって行くのである。
 聞くことによって私たちは教えられ、戒められる。聞くことによって励まされる。聞くことによって自分の状況と神との関係を客観的に理解できる。これらがあってこそ常に神との正しい関係にとどまることができる。まさに忠実であること、信仰を持ち続けることと聞くことは密接な関係にある(ローマ10:17)。心を開き主の御前に出よう。

2015/3/4(水) 担当 高谷清師  ?コリ14:26-33  賛美 新聖歌 344
 続いてパウロは27,28節において異言について語る。コリント教会において各自が自分に与えられている賜物を競うかのように無秩序に異言を語り、集会が混乱に陥っていた状況にかんがみ、異言を語ることの秩序について述べる。異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させるべきである。そして解釈する者がいなければ、教会では黙っているべきである。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっている(5節)からである。異言はそれを解釈する者がいない場合、自分自身と神に対して語るのであるから公の集会ではつつしみ、個人的な神との交わりにおいて語るべきである。異言を語る者が自分を造り上げるの(4節)からである。

2015/3/5(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下25:17-28  賛美 新聖歌302
 預言者の警告にも耳をかさず、心が頑なになり、すっかり思い上がったアマツヤはイスラエルの王に戦争の挑戦状を送った。イスラエルのヨアシュ王はこのアマツヤの愚行を冷笑し、彼を「レバノンのあざみ」と呼ぶ強烈な表現を使って戦いを拒否し、アマツヤにおとなしくしているよういさめた。それでも完全に高慢になってしまったアマツヤはこれをも聞き入れず、最終的にはユダはイスラエルに惨敗した。しかしここで目に留めるべきは、神から離れて高慢になったアマツヤもやはり神の支配のもとにあり、彼の心が高慢になったこと自体が「神の計らいによる(25:20)」と記されていることである。
 神に背き、心を閉ざし、高慢になったとしても、やはり神の御手の中に生かされている。そして神は背き続け、警告にも耳をかさず、不従順であり続ける者には最終的にはさばきをもって臨まれる。戦いからは命からがら逃れたアマツヤだったが、最終的には彼が主に背いたときから企てられた陰謀によって命を取られたのである。主に従うことは恵みであると同時に、神の愛を受けて生かされている者の責任でもある。

2015/3/6(金) 担当 高谷清師  ?コリ14:26-33  賛美 聖歌 501
 次いでパウロは預言する者について語る。預言する者の場合も二人か三人が語るべきである。彼らが語っている間に他の人に啓示が与えられたなら、今語っている人は黙るべきである。そして他の人には「それを検討しなさい」と命じている。ここで預言者によって語られた神のことばを人間が検討するということが許されるのかと言う問題が起こる。しかしパウロが言っているのはそれが神から出た真実なものであるか否かを検討する様に命じているのである。パウロはテサロニケの信徒への手紙?においても「霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい(?テサ5:19-21)」と述べている。ヨハネもまた「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです(?ヨハ4:1)」と述べている。サタンは巧妙である。私たちは常に神と交わりを持ち、聖霊に満たされ、語られることを吟味し、主の御心の内を歩もう。

2015/3/7(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリント 4:7-15  賛美 新聖歌172  
 人の生涯において何一つ苦難に遭ったことがないと言い切れる人は一人もいません。人は常に降りかかってくる様々な困難に立ち向かわなければなりません。自然災害、戦争、社会不安、また個々人の生活の中で起こる生活苦、病気と、予期しないことに遭遇するのが人の常です。使徒パウロもまた多くの困難を経験した人でした。福音宣教者として受けた困難は数えきることができないほどでした。?コリント11:16-28想像を超えた苦難をうけたことがわかります。パウロ自身も「死ぬような目に遭ったことも度々でした」(?コリ11:23)と告白しています。
 しかしパウロは「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(?コリ4:8-10)と証ししています。パウロは死人の内よりよみがえられたキリストの復活の力によって勝利を得ており、主の命が現されるために生きたのです。私たちもパウロにならって苦難を乗り越える生活を送る者になりましょう。”,,1049″