2015/3/9-14

2015/3/9 (月) 担当 高谷清師  ?コリ14:26-33  賛美 聖歌 501
 パウロは更に「座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」と語る。最初に神のことばが預言として与えられ語っていた人は、別の人に啓示が与えられたなら、最初の人は黙るべきである。それは皆が共に学び、皆が共に励まされるためである。これについて宮平望師は『「学ぶ(マンサノー)」 という表現から「弟子(マセーテース)」 という表現が作られているように、人々は父なる神の言葉を神の子イエスの「弟子」になって、イエスに実際に従いつつ「学ぶj のである。「慰める(パラカレオー)」行為は、「傍らに(パラ)」「呼び寄せて(カレオー)」慰めを与える「助け主、慰め主(パラクレートス)」 である聖霊の働きに基づくものであり(コリ?4:13 解説)、人々はイエスの弟子になって生きることで、この世で生きる上での慰めを聖霊から受ける。その際、聖霊は預言を受けた人々すべてを一度に慰めるのではなく、「一人ずつ」丁寧に取り扱う。(コリント人への手紙私訳と解説P232)」と述べておられる。御言葉の学び、それはその言葉の元来の意味、記された背景等を慎重に調べ、その文脈において本来のメッセージを聞くとともに、聖霊の光の中で今を生きる私たちに神がその御言葉を通して、語りかけておられることを聞き取ることが大切である。ここに御言葉を学ぶとき聖霊の臨在と導きを求める祈りの必要性がある。

2015/3/10(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下26:1-10  賛美 新聖歌165
 ウジヤがユダの王に即位した。52年間の彼の治世の滑り出しは良好であった。その父アマツヤと同じく、ウジヤも初期には「主の目にかなう正しいことをことごとく行った。(26:4)」その信仰に応えて主は彼を繁栄させられた。神に従う人には祝福が注がれるという、歴代誌が繰り返し伝えている原則が見られる。
 ここで注目したいのは、ウジヤが神に忠実であった期間、彼のそばには彼に神を畏れ敬うことをさとした人物であるゼカルヤがいたということである。自分一人の力で神に忠実に仕え続けることは誰にとっても難しい。私たちの周囲に共に神を愛し、神に仕え、励まし合いながら歩むことのできる人々を持つことは大きな恵みである。各自このような友を与えられるよう、主に祈り求めよう。

2015/3/11(水) 担当 高谷清師  ?コリ14:26-33  賛美 新聖歌 233
 パウロはここで「預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです」と語っている。これは預言者に働きかける霊は預言者自身を差し置いて勝手に働くものではなく、預言者自身に制御されるものであることを意味している。預言者は異教の人々の言う神がかり状態、何ものかに憑かれたように忘我脱魂の境にさまようものではない。それは、私たちの神は「神は無秩序の神ではなく、平和の神だから」である。確かに、神は全能者であり、私たちよりも偉大な方である。サムエル記において神は『「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(?サム 16: 7)』と語っておられる。それ故、神の御業は私たちの常識を超えてあらわされる。それは私たちに与えられている聖霊に呼応して私たちの心に「アーメン」をもたらすのである。内なる聖霊に違和感を与えるものなら吟味が必要である。常に聖霊によって歩もう。

2015/3/12(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下26:11-23  賛美 新聖歌317  
 ウジヤの治世の後半は、これもまた父アマツヤと同様に神に背き、神の祝福を失うものとなった。彼の背きの原因は勢力を増したのを見て、つまり自分が成功しているのを見て高慢になった結果堕落したからだというのである。ウジヤの時代だけではなく、今の時代にも起こる。神に祝福されて恵みを得た人々が「私は成功した」と思い始めるとき、心の中に傲慢が芽生える。もはや「神の恵みに感謝します」と言う言葉はその口から失せ、「私はこれをした」と言う言葉が聞こえ始める。ウジヤは祭司に与えられた職務を自ら行おうとして、神の定めを無視した。ウジヤが高慢になったことは、神を蔑ろにすることと背中合わせであった。
 今でもこのような罠はいたるところに潜んでいる。「私がやった」ではなく、「神が私を通して働かれた。神の恵みにより・・・」と言う信仰を失うことなく歩もう。

2015/3/13(金) 担当 高谷清師  ?コリ14:33b-36  賛美 聖歌 388
 ここに記されている事柄は当時の社会状況の中で語られたことであって、今日の状況にそのまま当てはめることはできないであろう。しかし、注意すべきことは各々には役割があるということである。現代は女性の社会進出が強調される。しかし従来女性が担ってきた働き、子供を育て、老父母を介護し、家庭を経営し、地域社会の絆を守る働きは社会で活躍する働きに比べて軽いもの、劣るものであろうか、否、それ以上に重要なものであると言わざるを得ない。昨今報道される悲惨な事件を見るとき、「家庭がしっかりしておれば」と思わせられることのなんと多いことか。教会における牧師夫人の働きの重要さはいかばかりか。私たちは主から与えられた役割を自覚しつつ、主に仕えよう。

2015/3/14(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリ9:24-27  賛美 新聖歌 455  
 2020年のオリンピックが東京で開催されることが決まっています。日本中の人々がこのオリンピックの成功を望み、選手たちも日々努力を重ね練習に励んでいます。オリンピックにおいて競技をするのは一時ですが、背後には幾年間にもわたる努力と節制があります。パウロはクリスチャン生涯を競技者にたとえて日々励むことを勧めています。オリンピック選手の得る栄冠は一時で忘れられ、朽ちていきます。しかしクリスチャンが得る栄冠は朽ちることの無い永遠の命です。私たちはこの栄冠を得るため日々絡みつく罪を振り捨て、勝利者であるキリストに服従しましょう。”,,1057″