2020/6/22-27

 2020/6/22(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:28-32 賛美 新聖歌 337

 「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」と記している。フランシスコ会訳聖書はこの箇所に「異教徒の家に入ると身が汚れるというのは、当時のユダヤ人の考え方であって、律法自体の中には見られない(10:2811:3参照)後に、このような場合は七日間汚れるという言い伝えが生まれた.」との注釈をつけている。ユダヤ人たちは自分たちが勝手に造った言い伝えによって自らの清さを守ろうとしながら、自らのかたくなさによった神の御子を十字架につけるという大罪を犯そうとしていることには気付いていない。この箇所についてアウグスティヌスは「ああ、不信仰な迷妄よ。他人の家によっては汚れるが、自分自身の悪行によっては汚れないのか。彼らは異邦人の裁判官の官邸によって汚れることを恐れながら、罪のない兄弟の血によって汚れることは恐れないのである。(アウグスティヌス著作集第25巻P365教文館1993)」と述べている。またイエスは「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」(マタ 15:4-6)と教えておられる。外見や形式ではなく愛と真実によって歩もう。

 

020/6/23(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:10-12  賛美 新聖歌35

 神の召しから全力で逃れているヨナは、逃亡の最中でも神を証しすることとなった。またその証しを通して人々はヨナの神の力によってこのひどい嵐が起こっていることを理解し、天地を造られた神の偉大な力を体験している。彼らはこの神の力に恐れを感じながらも、自分たちに降りかかった嵐の原因となったヨナをどうすべきかと考え込む。ヨナは自分を海に放り込めば嵐は治まると言い、自分の命を差し出せば神の怒りは静まると信じている。

 ヨナは死をもって深い悔い改めを現そうとしているのだろうか。それとも自分が神の怒りの原因であることを知りながら、開き直っているのだろうか。9節のような立派な信仰告白、神理解を持つ人が悔い改めの祈りについて知らないはずがないだろう。しかしヨナは祈ってはいない。むしろすべてを理解していながら居直っているようである。私たちが罪を犯す時、神が求めておられるのは深い悔い改めであり、神のもとに立ち返ること、心とふるまいを改めることである。

 

2020/6/24(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:28-32 賛美 新聖歌 282

 最高法院においてイエスを殺すことを決定したユダヤ人たちはイエスを総督官邸に連れて行った。ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言うと彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。イエスを尋問したピラトはイエスにはローマ法によっては罪を認めることが出来ず、ユダヤ人がイエスを訴えているのはユダヤ人たちの律法の問題であり、イエスに対する妬みによるのであることを見抜いて、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。ユダヤ人たちは自分達が選民であることを鼻にかけ、異邦人を蔑みながら、自分たちの目的を達成するためローマの権力を利用したのである。今日の私たちも同じことを行ってはいないだろうか。イエスの掟に反する行為、愛無き行為を、世の基準をもとに正当化しイエスの掟を空しくしていないだろうか。私たちはダブルスタンダードによって歩んではならない。徹頭徹尾福音によって歩もう。

 

2020/6/25(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:13-15  賛美 新聖歌282

 ヨナの自分を海へ放り込めという申し出にもかかわらず、船乗りたちは一人の命を見捨てることを引き換えに自分たちが助かることを安易に選ばななかった。彼らは必死にヨナも含めて皆が助かるよう努力した。しかしそれもかなわなかったとき、この天地創造の神を知らない船乗りたちがヨナの信じる神に向かって祈り、叫んだ。たった今、ヨナの告白を通して真の神について少し聞いただけの船乗りたちは的確に神に祈った。そして自分たちの手にヨナの命の責任を負わせないように願い、自分たちが神の御心に従っていることを思い起こしてほしいと願った。

 私たちは神について多くを学ぼうとする。万全の学びを整え、神について多くの解説書を学び、聖書に書いてある神はどういう方かという情報をたくさん集めることによって神を信じようとすることもあれば、信仰を成長させたいと願うこともある。しかし大切なことは、証しを通して示された神に叫ぶこと、求めることである。知識だけの神ではなく、生ける神への信仰を実践しよう。

 

2020/6/26(金) 担当 高谷清師 詩 54:1-5  賛美 新聖歌 357

 この詩篇には「ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。」と表題がつけられている。神に選ばれ油注がれながらも忠実に仕え、手柄を立てるダビデを、嫉妬の故に殺害しょうと執拗に追い続けるサウルにジフ人は「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます。王が下って行くことをお望みなら、今おいでください。王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です。」(?サム23:19-20)と伝えた。それを聞いたサウルは兵を率いて出て来た。このような状況下でダビデは「神よ、御名によってわたしを救い/力強い御業によって、わたしを裁いてください。神よ、わたしの祈りを聞き/この口にのぼる願いに耳を傾けてください。」と祈っている。サウルは訓練された兵士を率いており、その戦力はダビデとはくらべものにならないほど強力であった。しかしダビデは力強い御業を成される御名に確信を置いている。パウロは「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ロマ 8:31)と述べ、更に「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ロマ 8:38-39)と述べている。いかなる時にも神を信じ、確信をもって歩もう。

 

2020/6/27(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 13:28-37  賛美 新聖歌 465

 私たちは主が再び来られることは知っていますが、それがいつであるかは誰も知りません。天の父なる神だけがご存知です。だから私たちは主がいつ来られてもよいように、目を覚まして注意深く生活しなければなりません。いつ、どのような時にも主イエスと顔を合わせられるように備えることが大切です。主の言葉は確かに成就しますが、それがいつであるかはわたしたちにはわからないのですから、怠けて眠っていてはならないのです。主が再び来られるまでにはまだ十分時があると思い、不注意に今を過ごしてはならないのです。主が来られた時、滅びに至ることがないよう、主の言葉に信頼して、待ち望みつつ励みましょう。