2015/8/10-15

2015/8/10 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ1:3-5  賛美 新聖歌 339
 本書簡についてカルヴァンは「この書簡の主要点は、(中略)使徒ペテロがわれわれをこの世からひきあげて、霊の戦いに耐えるように準備させ励ますことにある。神の賜物を認めることが、霊の戦いに耐えるのにおおいに役立つのである。なぜなら、われわれが神の賜物を値打ちのあるものとして尊重するときには、すべて他のことをさしてかえりみないからである(カルヴァン新約聖書注解??ペテロ・ユダ・ヨハネ書簡P26新教出版社)」と述べている。この点についてパウロは「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります(フィリ3:8-9)」と述べている。ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている聖徒たちは、迫害下にあって信仰の故に多くのものを失わなければならなかった。そのような状況下にあって、信仰によって神から与えられた恵みは、信仰の故に失うものに比べてはるかに素晴らしいことを示し、励ましているのである。

2015/8/11(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書5:18-24 賛美 新聖歌354
 「災いだ」と言う表現を続けて罪を指摘し続ける。一つの罪を犯すとそれは一つにとどまらず、次から次へと罪を手繰り寄せる。そして悪を行う者はまるで神が自分たちの意のままに操られるかのように考え、ふるまう(5:19)。自分たちの都合によってことを曲げ、本来神を知ることが知識の始めであるが、それすらも知らない人々が自ら賢いと考える(5:21)。そのような民であふれる社会ではもはや正しい裁きが行われず、指導者たちも正義を行うことはない。ここに列挙される罪は当時のイスラエルだけに存在したものではない。現代の世界においても同じ罪がはびこっている。問題は神を知って神と共に歩んでいたイスラエルが主の教えを拒んで罪の中を歩み続けているのだからなお深刻なのである(5:24)。
 神を信じている人々は本当の意味で神の教えを拒むことなく日々を歩んでいるだろうか。み言葉を読み、み言葉に聞き、実生活の中でみ言葉に応答して歩んでいるだろうか。今日の歩みの中で神を利用し、神を操る生活ではなく、神に従う生活を送ろう。

2015/8/12(水) 担当 高谷清師  ?ペテ1:3-5  賛美 新聖歌 343
 神は豊かな憐れみによって、即ち、御子を肉を纏ってこの地上に送り、このお方を十字架につけることによって私たちの罪の贖いを成し遂げ、このお方を信じる者を新しく生まれ変わらせて下さったのである。これについてパウロは「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです(エフェ 2:10)」と述べている。更に神はその豊かな憐れみによって死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださったのである。ウェイン・A・グルーデムは「死人の中からのキリストの復活は、彼の民に新しい復活のからだと新しい霊的いのちの両方を確保している。(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P127−128いのちのことば社)」と述べている。私たちが罪赦され、神の子として新しく生まれ、御国において永遠の命を与えられることは、私たちの功績によらず,唯神の豊かな憐れみによるのである。それ故、私たちは力の限り御名を褒め称えよう。

2015/8/13(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書5:18-24 賛美 新聖歌390
 強大な軍隊が恐ろしい勢いで攻め寄せてくる様子が記されている。この軍隊を招集し、指揮しておられるのは主御自身である。この軍隊はどこに向かっているのだろうか。それはイスラエルを苦しめる民に向けられたものではなく、まさに主御自身の民である彼らに向けられたものである。5:25の主が御自分の民に激しく怒り、彼らを自ら撃たれるという裁きはあまりにも大きな衝撃であり、恐ろしい。しかしこれは平穏に歩んでいたイスラエルに突如として降りかかった神の気まぐれによる災難ではない。5章前半において「災いだ」と畳みかける呼びかけで指摘されてきた多くの罪の結果として起こったのである。まさに5:25の始めに「それゆえに」と告げられるとおりである。
 主は私たちの砦であり、主の御手で私たちを囲い、保護してくださる。その同じ主の御手が民を懲らしめ、教え、裁くために、神を知りつつ不従順に歩む人々に向けられることもある。まさに、これに続くイザヤ書の中で民が体験したことである。私たちはイスラエルの姿を通して、神の前にどう歩むべきかを学び、御心にかなう者として歩もう。

2015/8/14(金) 担当 高谷清師  ?ペテ1:3-5  賛美 新聖歌 233
 私たちが神を褒め称えるべきさらなるわけは、私たちのために天に蓄えられている財産を受け継ぐ者としてくださったことである。その財産は朽ちることがない。地上の財産は時の経過と共に朽ち果てる。高度成長期に構築した社会インフラは時の経過と共に老朽化し、更新期を迎え、自治体は四苦八苦している。しかし天に蓄えられている財産は朽ちることがない。また、それは汚されることがない。地上は人類の罪によって汚され、神の前に忌まわしいものになった。「わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き/味の良い果物を食べさせた。ところが、お前たちはわたしの土地に入ると/そこを汚し/わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた。(エレ 2:7)」と言われているように。更に私たちのために天に蓄えられている財産は「しぼまない」。この言葉を新改訳聖書は「消えて行くこともない」と訳している。地上の財産は消え去るのである。怪しげな投資話に乗って財産を消失する話のみならず、堅実な事業体と思われても、環境の変化、また判断の過ちによって、また災害によって消失の危険をはらんでいる。しかし天に蓄えられている財産は消え去ることがない。それ故に御名を褒め称えよう。

2015/8/15(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 12:4-7 新聖歌311
 キリスト者の生涯もすべてが平穏無事に進んでいくというわけではない。戦争や迫害によって身が危険にさらされることもある。そのような時に私たちは、神様はどこにおられるのか、神様はわたしのことを忘れてしまわれたのかと疑問を持ってしまう。しかし主は、取るに足りない値段で売られている一羽の雀さえも決して忘れおられない。そのようなお方が「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と語り、更に「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」と言われる。神は確かに一人一人の魂と体、すべてを御手に収め、支配しておられる。故に、死に至るような危険が迫る時にもそれを恐れる必要はない。体を殺しても、その後、それ以上何もできないからである。真に恐れるべきお方は殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方―神様だけである。”,,1160″