2016/8/29-9/3

2016/8/29(月) 担当 高谷清師  ?ペテ4:17-19  賛美 新聖歌 282
 続いてぺトロは「正しい人がやっと救われるのなら」と語ります。「正しい人」即ち主イエスを信じて義とされた人がやっと救われると言われているのである。ヘブライ人への手紙は「ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。」(ヘブ 2:3-4)と語っている。パウロもまた「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(?コリ9:27)と述べている。御子の尊い血潮によるあがないの恵みに与った者がその後堕落するなら、罰を免れることはできないのである。それ故パウロは「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」(フィリ 2:12)と勧告している。常に倦むことなく主に対する篤い信仰をもって歩もう。

2016/8/30(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書46:5-7 賛美 新聖歌258
 1〜4節では神がイスラエルを背負い続けてくださったと記されている。どのような時にも変わりなく支えてくださる神がいるのならば、その神に頼ればいいではないか。しかし5節からは正反対の行動をとっているイスラエルに対する叱責の言葉が続く。本物の神が彼らを慈しみ、導いておられるにもかかわらず、民は偽物を自らの手で作り出し、何の力もないものに心から助けを求めて叫んでいる。いくら必死で助けを叫び求めても、命の無い人の手で加工された木や銀にはその要求に応える力は備わってはいない。神ではない者を真の神と比べ、似せようとする人々に対して、その努力は無駄であると神は言われる。これはイスラエルに限らず現代にも共通する人の姿である。
 私たちは改めて自分自身を省みる。私たちを担い続けてくださっている力ある真の神に頼っているだろうか?神は人の手で作ることができるものではない。私たちを造ってくださった神に信頼しよう。

2016/8/31 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ4:17-19 賛美 新聖歌 235
 「不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と語られている。ヨハネは「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ3:18)と述べている。またパウロは「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」(ロマ 2:5)と述べている。神の尊い愛によって御子イエスの血潮による救いが成就され、宣べ伝えられているにもかかわらず、信じない人々に待ち受けるものは永遠の滅びである。今の恵みに感謝し留まるとともに、未だ信じるに至っていない人々のために祈るとともに、救いのことばを伝え続けよう。

2016/9/1(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書46:8-13 賛美 新聖歌20
 この章は神からの力強い宣言で閉じられる。神の御業を認めようとしない人々に対して、歴史を通じて神が顕してこられたことを思い起こして唯一の神を認めよと言われる。神の業は過去においてのみ見られたものではない。人々がまだ見ていない将来をも御手に収めておられる神は将来についても語られ、実現に至らせると記されている。民にとっては神の民の外側に存在するキュロス(45:1)さえ、神の支配のもとにあり、神の用いる働き人となることが起こり得る。
 人が考える限界を超えて神は働くことがおできになる。そして必要に応じて神は異邦人をも用いられる。しかし神はご自身の良き業を信仰告白した者だけを用いて実現されると決め込んでしまってはならない。御心ならばあらゆる人々、物をお用いになることができるのが神である。神が今から救いの業をなさると言われるとき、それが私たちの常識を超える業であると伝えられても不信仰に陥らず、神の力を信じて期待して主の働きに従おう。

2016/9/2(金) 担当 高谷清師  詩編 26:1-5  賛美 新聖歌 201
 ダビデは生涯を通して主のみ前に真実に歩むことを追い求めてきた。しかし生涯を通して誣告に悩まされた。即ち、初期においてはサウル王の理不尽な迫害に会い、晩年にはアブさロムの偽りのことばにより、人心はダビデを離れた。このような誣告者の訴えに関して主に裁きを求めている。彼は主のみ前に「わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。」と、自らの歩みの正当性を訴える。そして「主よ、わたしを調べ、試みはらわたと心を火をもって試してください。」と願う。彼は自分のすべてを主の前にさらけ出して裁きを求めている。これほどまでにダビデは主のみ前に真実に歩むことを追い求めてきたのである。しかし彼は「あなたの慈しみはわたしの目の前にあり、あなたのまことに従って歩き続けています。」と告白する。人が如何に完全に歩んでも神のみ前では罪びとであることを免れ得ない。神の慈しみ、神のまことによってのみ、御前に完全なもの、神の裁きに耐える者とされることが出来ることを知っている。パウロは言う「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ロマ 3:23-24)と。新約の恵み、キリストの贖いの恵みの内にあることを心から感謝しょう。そしてダビデと共に「偽る者と共に座らず、欺く者の仲間に入らず、悪事を謀る者の集いを憎み、主に逆らう者と共に座ることをしません。」と告白しつつ御前に真実な信仰生活を追い求めつつ歩もう。

2016/9/3(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリ1:18-21 賛美 新聖歌 359 
 古来、人間は洋の東西を問わず、神を、そして救いを探し求めてきました。そして沢山の知者、賢者を輩出してきました。しかし人を救いに至らせるもの、人に永遠の命を得させるものはありませんでした。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。すなわち、人に救いを得させるため罪の無いご自分の独り子を遣わし、このお方に人のすべての罪を負わせて十字架につけ、このお方が血を流し、命を捨てることによって、このお方を信じるすべての人を罪から解放し、救いを得させる道を開かれたのです。これは世の知者、賢者の目には愚かに映ります。しかしこれは神の知恵であり、私たちの救いの唯一の道です。”,,902″