2015/8/3-8

2015/8/3 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ1:1-2  賛美 聖歌 232
 「選ばれた人たち」について著者は「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて」と述べている。この箇所を口語訳聖書は「父なる神の予知されたところによって選ばれ」と訳し、新改訳聖書は「父なる神の予知に従い、・・・選ばれた人々」と訳し、更に宮平望師は「父なる神の予知によって」と訳されている。パウロは「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました(エフェ1:4)」と述べている。「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」即ち、罪に満ちた世から選び出され、恵みによって救われ、それ故に世に在って苦難の生活を強いられている聖徒たちは、父なる神の愛の内にあらかじめ選ばれた人たちであった。この事実は手紙を受け取った人々にとって大きな慰めであり、異教社会の中で少数者として生きる今日の日本のキリスト者にとっても大きな励ましである。

2015/8/4(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書5:1-7 賛美 新聖歌166
 あるぶどう畑とその主人の姿を描写しつつ神とエルサレムの人々の関係を歌った歌である。1-2節では第三者によってぶどう畑の主人とぶどう畑との関係の顛末を語る。主人は農夫としてこまごまとした作業をすべて行った。それは多くの労力を費やした働きであった。出来る限りのことをした農夫はよい実りを楽しみにしていたのに、大切に手入れしたぶどう畑はその期待に応える良い実りをもたらさなかった。それに続いて3節からはこの農夫の生の声が響く。自分の愛情をつぎ込んだこれらの全ての労力にも関わらず腐った実をつけた畑と自分との間の審判を求め、農夫が正しいことを主張した。それに対してぶどう畑が受ける報いは火と暴力による荒廃であり、主人の庇護の喪失であった。
 ブドウ畑の姿を描いたこの詩を読みながら、主人とは誰かと考え続けてきた私たちはついにそれが神ご自身であることを3節に来て知る。ぶどう畑であるユダが神の働きと庇護に十分応えない時、ついに受ける分は荒廃であり、流血と叫喚である。「神の愛を受けているから、悪いものを生み出しても構わない」のではない。ふんだんに注がれる神の愛にふさわしい実を実らせ、神の前に差し出す者になりたい。

2015/8/5(水) 担当 高谷清師  ?ペテ1:1-2  賛美 新聖歌 369
 続いて著者は「“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」と述べる。聖霊の導きの中でキリストを信じる信仰へと導かれ、罪の赦しを与えられ、救いの恵みを喜び、感謝の生活へと導かれた私たち、にもかかわらず、肉の弱さを持つ私たちは、日常の歩みの中で罪を犯してしまう現実に遭遇して悲しみと絶望に陥ってしまうことがある。パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか(ロマ 7:24)」と叫んでいる。これについてヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます(?ヨハ1:7)」と述べている。肉の弱さのために罪を犯す私たちですが、悔い改めて主の十字架を仰ぐとき、息には豊かな許しと清めの恵みが備えられているのである。

2015/8/6(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書5:8-17 賛美 新聖歌366
 ぶどう畑の歌の中で辛らつな言葉を浴びせられたエルサレムの罪が数え上げられていく。「災いだ」で始まる罪の指摘とさばきという形式はここに6回あり、7回目は10:1-4に見られる。最初の5:8-10節ではイスラエルの土地に関する罪が指摘されている。神から嗣業として与えられた土地は勝手に売買することを厳しく律法で禁じられていたにもかかわらず、それに背くならば、その裁きとして土地は呪われ、自然に反して地は実りをもたらさなくなるという。さらに5:11-17節ではぶどう畑の実りを正しく用いず、欲に任せて金持ちが搾取するとき、彼らは自分の欲を満たすことにのみ目を奪われ、神を認めることができず、民全体が滅びていく。その中で高く上げられるのはただ神の正義のみである。
 「少々悪を行っていても大丈夫。誰にもわからないしこの程度なら神様も見逃してくれる」と考えていないだろうか。しかし小さな罪から私たちの霊の目は曇り、神から離れていく。日々自分を省みて神の前に正しく歩もう。

2015/8/7(金) 担当 高谷清師  ?ペテ1:1-2  賛美 新聖歌 214
続いて著者は「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」と記している。これについて宮平望師は「三位一体の神が人々に与える恵みとは、基本的に人々の信仰に基づいて無償で与える救いであり、人々に対する神の愛である。この神の愛に基づいて人は神との「平和」、人と人との「平和」を保つことができる(cf.民数6:25-26)。つまり、神の恵みは人の平和の源泉であり、人の平和は神の恵みの結果である。(ヤコブ・ペテロ・ヨハネ・ユダの手紙私訳と解説P127)」と述べておられる。パウロもまた「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(エペ 2:14-16)」と述べている。主イエスの十字架の贖いの恵みによって神との和解を得させていただいた私たちは、安全保障問題の議論の盛んな中に在って、その基本に目を向け、祈っていきたい。

2015/8/8(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ12:13-17 新聖歌391
 人々はイエスを試みて陥れようとして「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」(14節)と問い詰めました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(17節)とイエスは答えられました。この答えはイエスの素晴らしい、驚くべき知恵を表しています。この世で生きるキリスト者の、世に対する責任と神に対する明確な態度との葛藤という難問を、主は見事に解決されたのです。クリスチャンもこの世で生きていく上で生活のために従うべき社会のルールがあります。同時に信仰者として永遠の命を得る霊的な生活と神の国の原則もあります。その中で知恵をもって歩んでいきましょう。”,,1219″