2015/7/27-8/1

2015/7/27 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ1:1-2  賛美 聖歌 395
 コリントの信徒への手紙一を先週で読み終えた。今週からはぺトロの手紙一を共に読んでいきたい。この手紙はぺトロが宣教した小アジア地方の迫害下にある聖徒たちに向けて書かれたものである。この手紙の目的についてカルヴァンは「聖ペテロがこの書簡においてあきらかにしようとした目的ならびに意図は、信者たちをして自己を否定させ、かつ、この世を軽視するように説きすすめることにある。それは、肉の愛着から解放され、また、地上のあらゆる障害を解消した信者たちが、 キリストの国を、 まったく、心の底から望むためであり、また希望に支えられ、忍耐に基づき、力と節操とを与えられたかれらが、あらゆる種類の誘惑を乗り越え、また(キリストの国を待望するための)勉強と黙想とに、かれらの全生涯を働かせるためなのである。(カルヴァン新約聖書注解??ペテロ・ユダ・ヨハネ書簡P19新教出版社)」と述べている。これは、今日、世俗化の時代に生きるキリスト者にとっても極めて大切なメッセージである。聖霊に導かれつつ本書簡のメッセージに耳を傾けたい。

2015/7/28(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書4:2-6 賛美 新聖歌369
 3章から一転してここでは将来のエルサレムについて語られている。裁きが宣言されているその真っ只中において、裁きの後に生き残った者が聖なる者と呼ばれると語られる。罪を犯して裁きを受けたイスラエルを神は完全に滅ぼされないのである。その中から生き残る者を選び、さらに残りの者の汚れを洗い、聖としてくださる。これは到底人にできる業ではない。正しく生きようと努力してもできなかったイスラエルを、また罪を警告されても離れなかったイスラエルを、神ご自身が清めてくださる。主の前から滅ぼし去らずに再び生きる道を与えてくださるのである。
 自分の罪に気付き、自力で回復できないという現実の前に立つとき、私たちはなすすべがない。しかし、汚れを洗い、再び聖い者として洗い清め、立ち上がらせてくださるのは神である。それは私たちが神に憐れみによる清めを祈り求め、神の前に立つことから始まる。畏れをもって主の前に出よう。

2015/7/29(水) 担当 高谷清師 ?ペテ1:1-2  賛美 新聖歌 37
 著者は「イエス・キリストの使徒ペトロ」と記す。これについてNTD新約聖書註解は「使徒たる者は、自分自身の全権によってではなく、彼を召された方の委託によって行動する。彼が自分に与えられた権威を公言し得る理由は、彼の背後に集会の主が立っておられるからである。彼を通して、キリスト御自身が語りたまう。(NTD新約聖書註解10公同書簡P109 NTD新約聖書註解刊行会)」と述べている。このことは私たちがこれを神のことばとして受け入れることを求めているのである。私たちは本書簡のみならず、聖書66巻を神のことばと信じ、受け入れている。このことは私たちが聖書に聞き従うべきことを、そして聖書を生きるべきことを求めるのである。

2015/7/30(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書4:2-6 賛美 新聖歌372
 神によって清められた残りの者から成るイスラエルは新たな神の臨在を見た。5節に昼のための雲と夜のために煙と燃えて輝く火について語られているが、私たちはこれを読むとかつてイスラエルがエジプトから救出されて旅をした荒野の行程を思い起こす。イスラエルは昼も夜も雲と火の柱を見ながら宿営にとどまり、また旅をつづけた。彼らを保護するものがない荒野にあってその柱は神が共におられることのしるしであり、神の臨在を顕していた。イザヤもまた民が回復されるときには神の臨在が民と共にあり、さらに民全体が覆われて完全な神の守りのもとに置かれると語る。詩編121:5-6に記されているとおりである。
 神は人々の罪を洗い清めることのできるお方である。そして洗い清めた後、人々を危険にさらしておかれるのではなく、自らご臨在を示し、守りとなってくださる。自らを主に明け渡して主の前に立つにふさわしいものとされ、主の守りの中を今日も歩みたい。

2015/7/31(金) 担当 高谷清師  ?ペテ1:1-2  賛美 新聖歌 275
 著者は本書簡の受取人を「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と記している。「離散」という言葉はバビロン捕囚以降、パレスティナを離れて異邦人の地にすむユダヤ人を指した。しかしここでは神に選ばれ、信仰によってキリストの贖いの恵みを受け入れ、罪の世から解き放たれ聖徒を指している。パウロは「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています(フィリピ 3: 20)」と述べている。パウロはさらに「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(ロマ12:2)」と述べている。キリストを信じ、世から聖別されたキリスト者は世の罪の業に背を向ける。それ故世から迫害を受けるのである。私たちについて言えば地域社会の年中行事になっている偶像の祭りに参加しない・・・等々である。それによって地域の人々からの反発を受けることがある。しかし、神が私たちに備えていて下さる恵みの大きさ、私たちがあずかろうとしている神の栄光を仰ぎつつ、確固たる信仰に立って歩もう。

2015/7/18(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 6:19-21  賛美 新聖歌421
 主は「あなたがたは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい。」と言われました。それは、地上の富は「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」からです。それに対して天の富は「虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」のです。パウロが「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(?コリ15:50)」と述べているように、地上の富は神の国を受け継ぐことはできないのです。そして、人の心は富に縛られるのです。私たちが天に宝を積むとき、私たちの心もまたそこにあるのです。”,,1381″