2015/2/2-7

2015/2/2 (月) 担当 高谷清師 ?コリ14:1-5  賛美 新聖歌 216
 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。(?コリ12:31a)と勧め、そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます(?コリ12:31b)と語ったパウロは、「愛を追い求めなさい」と語る。13章において語られたように愛は最も大いなるものである。そしてヨハネが「神は愛です(?ヨハ4:16)」と述べているように、愛を追い求めることは神を追い求めることである。神は無限のお方であるが故に、愛を追い求めることもまた無限である。それ故にパウロは「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです(ロマ13:8)」と述べている。主イエスも「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタ 22:37-40)と語っておられる。「愛を追い求めること」それはあらゆる局面で、永遠の課題である。日々、愛を追い求めて生きよう。

2015/2/3(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下21:2-7  賛美 新聖歌275  
 ヨシャファトの死後、その息子の一人であるヨラムが王となった。父とは対照的にヨラムの治世は最初から雲行きが怪しい。ヨラムは兄弟や高官など、能力を持つ者たちを恐れて彼らを殺すところから治世を始めている。それに続いて偶像礼拝をおこない、神に背き続けた北王国と同じように悪を行ったと報告されている。父ヨシャファトは神に忠実であったが、息子ヨラムは対照的である。不従順であり、罪の道を歩み、偶像礼拝を積極的に取り入れた。その理由として父の代に北王国の同盟のために結ばれたイスラエルの王家との婚姻関係が挙げられている。これは私たちに対しても、たとえ小さなことであっても信仰の躓きとなることを避け、取り除くように告げる警告でもある。
 ここでもう一つ印象的なことはヨラムの不従順と罪にもかかわらず、神はダビデとの契約を心に留められたがゆえに南王国を滅ぼそうとされなかったことである。人は不従順に陥るが、神は真実である。この真実な方を侮ることなく、またその真実に甘えることなく、私たちも日々聖霊に導かれて従順に歩みたい。

2015/2/4(水) 担当 高谷清師  ?コリ14:1-5  賛美 新聖歌 38
 次いでパウロは霊的な賜物を熱心に求めるように勧める。そして預言の賜物と異言の賜物について語る。ここでは預言するための賜物を熱心に求めるようにと語る。何故なら、預言する者は、人に向かって語っているのであって、それは人を造り上げ、励まし、慰め、教会を造り上げるからである。預言するとは、信仰と聖霊によってみ言葉を解き明かすことである。ある種の霊的体験をもとに聖書を逸脱するものは預言ではない。この点において私たちは霊を識別する力を体得することが極めて大切である。正しい信仰に立ち、聖霊に満たされて御言葉を解き明かす力を主に求めよう。御言葉は、あなたがたの魂を救うことができる(ヤコ1:21b)からである。

2015/2/5(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下20:13-21:1  賛美 新聖歌303
 神に不従順で罪を犯したヨラムの治世は悲惨なものであった。周辺諸国が反乱をおこしてユダから独立し、人々は偶像礼拝に陥り、またヨラム王自身も預言者エリヤの言葉通り、内臓の病で悲惨な状態になり、死を迎えた。これらは偶然に彼が不運に見舞われたというわけではなく、彼が「先祖の神、主を捨てたから」(21:10)だと明言されている。さらにヨラムが病のために、人々から惜しまれることもなく死ぬことだけではなく、彼の死に際して葬りのために火は焚かれず、墓も王たちと共にはされなかったのである。神と共に歩んだ歴代の王たちとの歴然としたこの違いはなぜ起こったのだろうか。それは先祖の責任ではなく、ヨラム個人が神から離れ、罪の生活を選び取ったことの結果であった。
 私たちは社会人として人々と共に生活している。そこでは共存を求められることがある。しかし、そのことを口実に神から離れて罪を犯し続ける生活に陥らないよう、常に御言葉に照らして自分の歩みを吟味したい。

2015/2/6(金) 担当 高谷清師  ?コリ14:1-5  賛美 新聖歌 409
 次いで異言を語ることについて見ていきたい。ある人々は、異言は預言に劣ると言うが、そうではない。確かにこの箇所においてパウロは「預言する者の方がまさっています」と述べているが、それには「教会を造り上げるためには」という言葉を添えているのである。「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです」と語り、異言を語る者は自分を造り上げると述べる。そしてパウロは「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します(?コリ 14: 18)」と言い、更に「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです(ロマ8:26)」と述べ、「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが」と述べているのである。私たちがどんなに言葉を弄しても、人間の言葉は限られており神の栄光を語りつくし、褒め称え尽すことはできない。御霊の与えてくださる言葉をもって神をたたえ、自らを造り上げていただきたい。

2015/2/7(土) 担当 高谷由紀子師 フィリピ2:3-4 新聖歌367
 日常生活の会話を注意して聞いていると「私の家は、私の主人は、私の子供は・・・」と自分のことに終始している人が多いことに気付きます。自分のことで頭の中がいっぱいで他人のことを思いやる余裕を失っている人が多いのです。しかし聖書は「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と教えています。そして他の人に目を向ける場合、「へりくだって互いに相手を自分よりもすぐれたものと考え」ることが大切です。どんな偉大なものを持っていても全知全能の神の前には無に等しい者です。神がそれを与えてくださったのはそれをもって神と人に仕えるためであり、神の栄光をあらわすためであって、自分自身を高くし、他人を見さげるためではありません。弱っている人、病んでいる人に真にへりくだった思いをもって寄り添う人になりましょう。”,,1257″