2014/4/21-26

2014/4/21(月) 担当 高谷清師 ?コリ6: 12-20 賛美 新聖歌372

 パウロは14節で「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」と述べている。更にパウロは復活について本書簡の15章全体を費やして詳しく述べている。昨日はイースターであったから兄弟姉妹方は各々の教会で復活に関するメッセージを聞かれたのであるから、この主題に深入りはしないでおきたい。しかしパウロが「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます(?コリ15:51-52)」と述べていることに注意を向けたい。最後のラッパが鳴る時―神の時―が来るその時、私たちが眠りについているなら復活して朽ちない者とされ、地上で肉をもって生きながらえているなら変えられるのである。それ故、私たちは霊肉ともに潔さを求め続けるべきである。
 

2014/4/55 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上3:17-24 賛美 新聖歌389

 引き続きダビデの系図が扱われている。3:1-16では王国時代のダビデ家の系図が記された。そして17節以下では捕囚時代に入ってからのダビデの系図が記されている。イスラエルの歴史をたどりつつ聖書を読んでいくと、エルサレムの陥落・南王国の崩壊によって神の民の歴史が終わるように見える。確かにエルサレムが滅ぼされたことはイスラエルにとってもまた私たちにとっても大きな出来事であり、衝撃であった。『なぜ神はご自分が選ばれた民を見捨てられたのか?』とはしばしばクリスチャンから投げかけられる疑問である。紀元前586年のエルサレム崩壊によってイスラエルは国土を完全に失った。古代世界においてそれは、イスラエルの神が力のないことの証明としてとらえられた。しかし、歴代誌は捕囚時代に入ってもなおダビデの系図が続いていることを示し、さらにそのリストを見ると、シェンアツァル(=シェシュバアル、エズラ1:8-11参照)やゼルバベルなど、捕囚時代にイスラエルの中で指導的役割を果たした人々の名前が見られる。
 国を失い、捕虜となった時点で人はイスラエルの神を侮り、イスラエルの未来に対して希望を失い「もう終わりだ」と言う。しかし、神の目には捕囚が「終わり」ではなく、イスラエルに悔い改めて神の前に立ち返ることによる関係の回復のための手段であったことがわかる。神は決して愛する者たちを捨て去ることはないお方である。
 

2014/4/23 (水) 担当 高谷清師 ?コリ6:12-20 賛美 新聖歌222

 「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」と言われていることについて先日、「食物も腹もやがて滅ぼされるべき一時的なものである。このようなものに拘泥してはならない」と記した。曹洞宗管長、大本山總持寺貫首を務められた板橋興宗師が「息身佛」と言う著書を著しておられる。その中で師は「私が貫首だったときは、道元禅師の御生誕八百年と七百五十年大遠忌の大イベントが二年連続であったのです。忙しかったねえ。当時は永平寺の貫首が宮崎突保禅師でしたから、ふたりでいつもステージに上がっているような感じでね。大本山の住職として用事が重なり、坐禅などやれる状況ではない。外出するときはベンツという高級な車で運転手付き。絹の座布団に坐らされているような生活でした。若いころ、良寛さんを目標にがんばってきた自分のような修行途中の身が、偉い偉いと崇められ、敬われてしまっている。私が僧の道に入ったときの念願とは違った方向に進んでいる。これではいけない、と心から反省しました。大本山の貫首をしているより、やっぱり修行をしているほうが楽しいね。それが自分の初心を、志を貫くということです。(息身佛P65−6角川マガジンズ6)」と記しておられる。
 宣教の働きを進めるためには組織も必要である。組織には上下関係が生じ、支配と被支配が現れる。そのためポスト争いが繰り広げられる。しかし人を救いに導くのはポストではなく、愛に基づく宣教である。組織は地上のものであってやがて滅ぼされるべきものである。本末転倒にならないように、愛をもって神と人に仕えよう。
 

2014/4/24 (木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上4:1-43 賛美 新聖歌191

 ユダの子孫について二つ目の系図が記されている。これは3章のダビデの系図を補う。この系図でもいくつかの関心が見られるが、特に私たちが読むときに目に留まるのはヤベツに関する記述である。ヤベツという名はヘブル語で「痛み」を意味する言葉と関連付けられ、それはヤベツが生まれたとき難産だったからであると説明される。このヤベツに関して、系図は、特に祈りについて語っている。ヤベツは神を信頼して神に祈った。その領土を広げてほしいという祈りと災いと苦しみからの守りについての祈りを主は聞いてくださった。ヤベツについてここに記されていることを読むと私たちはヤコブを思い出す。ヤコブも難産の末に生まれ、あまり肯定的な意味を持たない名を与えられたが、信仰の人であり、神の祝福を受けた人であった。
 ヤコブとヤベツの生涯を見るとき、私たちは神に信頼して祈る人の祈りを神が聞いてくださることを知る。それは私たちが道徳的、社会的に無責任であってよいということを肯定するものでは決してない。しかし、神は信頼する者の祈りを必ず聞いてくださることを思い起こさせる。神を信じ、忍耐をもって祈ろう。
 

2014/4/25(金) 担当 高谷清師 ?コリ6:19-20  賛美 新聖歌438

 「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」と述べられている。私たちは、神が尊い御子の血潮によって贖い、神のものとしてくださった存在である。さらに、パウロが「神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました(?コリ1:22)」と述べているように、私たちの体は、神によって与えられた聖霊が宿ってくださるところ、神殿なのである。それ故私たちは体を不義に供してはならない、不摂生によって破壊してはならない、清く、尊く扱い、神の栄光を顕していくべきである。いかなる所にあってもキリストの香りを放っていく者となろう。
 

2014/4/26(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 16:9-11 賛美 新聖歌32

 マグダラのマリアは復活なさったイエスに出会った最初の人であった。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らはこの知らせを信じなかった。彼らの心が悲しみによって閉ざされ、主を見上げることが出なかったのである。私たちはいかなるときにも御言葉に固く立ち、神に目を注いで歩む者となりたい。