2015/6/8-13

2015/6/8 (月) 担当 高谷清師  ?コリ?コリ15:50  賛美 新聖歌 263
 復活の体について論じてきたパウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」と語る。「肉と血」とは、地上に生きる私たちが持っている、朽ちる体である。この朽ちる体が神の国を受け継ぐことはできないのである。主イエスもまた「「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない(ヨハ 3:5-6)」と語っておられる。神の国を受け継ぐことが出来るのは自然の体ではなく、キリストに在って新しく生まれた霊の体である。

2015/6/9(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下36:11-16  賛美 新聖歌181  
 いよいよユダの最後の王、ゼデキヤの時代である。ゼデキヤはアッシリアによって王として据えられた。しかしアッシリアに服従しなかった。アッシリアとの関係が神への誓いによって始まったゆえに、アッシリアへの不服従は罪であった。さらにゼデキヤには預言者が送られ、彼が悔い改めるチャンスは供えられていたが、主に帰らなかった。さらには礼拝の場である神殿を汚した。あらゆる罪を犯し、チャンスを与えられても心を頑なにして主に立ち返らなかったゼデキヤに対して主の怒りが燃え上がった。
 北王国のみならず、南王国まで滅ぼされた神は厳しすぎ、無情な方なのだろうか。そうではない。常に忍耐し、何度も悔い改めの機会を与えられてきた。にもかかわらず頑なな民は自分の意志によって悔い改めを拒んだのである。神が悔い改めを迫られるときに、私たちは心を頑なにして背き続けてはいけないのである。愛の神に甘えてはいけない。愛の神を侮ってはならない。罪があるなら悔い改めよう。

2015/6/10(水) 担当 高谷清師 ?コリ15:51-58  賛美 新聖歌 225
 「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」と語ったパウロは神の国を受け継ぐことの出来る霊の体について語る。それは最後のラッパが鳴る時、即ち再臨の時に一瞬にして起こるのである。それは死者が復活して朽ちない者とされ、肉の命をもって地上に生存している者もまた朽ちないものに変えられるのである。
その時、神がイザヤを通して預言された「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである(イザ25:8)」と言う御言葉が成就されるのである。その時、全ての人を支配してきた死は勝利にのみ込まれ、滅ぼされる。それは私たちの罪を負って十字架に架かられた御子イエスの御業によるのである。それ故パウロは「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」と語る。パウロと共に、神に感謝と賛美をささげよう。

2015/6/11(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下36:17-23  賛美 新聖歌209  
 背く民に対してカルデヤ人(バビロン)―すなわち異邦人を送られ、民を滅ぼされた。神はイスラエルだけを治める方ではない。世界全体が神の支配のもとにあり、御心を行うときに神はすべてのものを用いられる。民の手で汚された神殿を含めてエルサレムは破壊された。これを通してついに土地は安息を得た。民の罪の結果、安息を定めた律法は破られ、土地も安息を必要としていた。これは神の厳しい裁きとしての捕囚によってようやく得られた。しかし、歴代誌はここで筆を折っていない。本書の最後の最後の部分でペルシャ王キュロスによって捕囚の終わりが告げられ、民が神殿再建を許されたことが記されている。
 最後まで神に対して傲慢で頑なに罪を犯し続けた民にも神は回復を与えられた。最後に私たちは一筋の希望の光を見出して歴代誌を読み終えることができる。神の憐れみに感謝。

2015/6/12(金) 担当 高谷清師  ?コリ15: 51-58  賛美 聖歌622
 復活の確かさとそれによって私たちにもたらされる恵みとを語ってきたパウロが「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」と勧める。主は確かに復活された。そして主の復活は信じる者の復活の保証である。
 私たちは死すべき肉の衣を纏って生きている。常に死を意識しつつ生きている。特に、「高齢者」と言われる域に達するとこれを始めても完成させることが出来るであろうか、この果樹を植えて、実を着けるまで生きながらえることが出来るであろうか、などと考える。しかし、主の恵みによって死は滅ぼされた。朽ちる体を脱ぎ捨てるとき、私たちには主によって朽ちることのない体が備えられているのである。それ故、朽ちるべき衣を纏った私たちの、主にある労苦の一切は無駄になることはない。確かの信仰に立ち、全力を注いで主の業に常に励もう。

2015/6/13(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハネ21:20-23 賛美 新聖歌 396
 イエスが復活された後、弟子たちに現れたのはもう三度目です(21:14)。このとき弟子たちは不信仰に陥り、不安と孤独な毎日を送っていました。よみがえられた主はペトロに会い、「私に従いなさい」と言われました。ペトロは弟子として共にイエスに仕えてきたヨハネのことが気にかかり、彼はどうなるのかと主に尋ねました。これに対して主は、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。」と言われました。
 私たちが信仰生活を送って行く中でほかの人々のことが気にかかります。この人はなぜ集会を休むのか、あの人はなぜ奉仕をしないのかと批判をします。しかし主は「あなたは私に従いなさい」と言われます。クリスチャンが主に従うとは周りの人の態度に関係なく自分と主との関係において全身全霊をもって従うことです。”,,1039″