2015/10/12-17

2015/10/5 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ2:1-3 賛美 聖歌 201
 「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」と語られている。生まれたばかりの、まだ目も見えない嬰児はひたすら乳を求め、それによって成長していく。乳の中には嬰児の成長に必要なすべての成分が備えられている。ぺトロがこのように勧める「乳」とは御言葉である。そして「生まれたばかりの乳飲み子」とは信仰の初心者のみならず、すべてのキリスト者を指す。黙示録には「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください(黙 22:18-20)」と記されている。私たちに必要な神のことばは聖書において余すところなく明らかにされており、それはすべてのキリスト者を成長させるのである。それ故私たちは常にみ言葉を読み、常にそれを思い、常にみ言葉を歩む者でありたい。

2015/10/13(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書11:1-5 賛美 新聖歌302
 将来与えられる王について語られ、それがユダとイスラエルの希望となっている。10:19ではアッシリアの森の木々がイスラエルの聖なる方の炎によって焼き尽くされることが記されていたが、それとは対照的にユダでは切り株から芽が萌え出ると語られる。ユダの現状では寡婦や孤児に対する正義が行われず、神に対する信仰に立って国を導く王が見出されなかった。それでも神は将来、エッサイの株すなわちダビデの家から神の御心にかなう、様々な知恵と能力を備え、神を畏れる心を持った王が与えられると語られる。
 神は預言者を通して何度も神に立ち帰って歩むように王と民に語られたが、相変わらず自己中心で神を畏れない民に対して、最終的には神が正しい王を送られると語られる。罪を犯し、神に従わない者に対して神は厳しく裁かれる。しかし、神の愛はそこで途絶えることがない。神に従うことが出来ないものであっても、なお神は愛し、回復のために必要な正しい指導者を立ててくださった。その憐れみ深い神が今日も私たちと共に歩んでくださる。

2015/10/14(水) 担当 高谷清師  ?ペテ2:4-6  賛美 新聖歌 257
 ぺトロは「この主のもとに来なさい」と言う。そしてこの主は「人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」と語る。使徒言行録においては「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです(使 4:10-12)」と語っている。私たちの主は世によって捨てられ、殺されたが、神によってよみがえらされ、救い主として、罪によって死んだ者に命を与えるものとして立てられた尊い、生きた石である。常に主の内に留まろう。

2015/10/15(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書11:6-10 賛美 新聖歌251
 狼や豹が本来ならその餌となる子羊や子山羊と共に平和に共存している様子はイザヤ書65:25を思い起こさせる。本書の最後に終わりの日の回復と平和が記されているが、11章でそれが先取りされて短く描かれている。11章前半は、罪深い民が悔い改められないにもかかわらず神が主導して正しく治める者を与えられたと記され、次いでこの箇所ではその王の治世には常識では考えられない争いのない世界、平和が確立され、何よりもその平和は主を知る知識によって支えられていることが明言されている。
 争いがない世界を誰もが願うが、いたるところで争いは絶えない。残念なことにクリスチャンの間でも歴史を通じて様々な対立や争いを経験してきた。あらゆる人々の集まりにおいて、本当の意味での一致と平和を実現する鍵は一人一人が「主を知る知識で満たされる」(11:9)ことである。み言葉と祈りを通じて今日も神を深く知りたい。

2015/10/16(金) 担当 高谷清師  ?ペテ2:4-6  賛美 新聖歌 423
 ぺトロは「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」と語る。パウロは「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです(?コリ6:19)」と述べている。わたしたちが主イエスを救い主として受け入れるとき、神は私たちの内に聖霊を住まわせてくださる。私たちは聖霊の宮とされるのである。さらにパウロは「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです(エフェ2:19-22)」と述べている。聖霊の宮とされた私たちは互いに結び合わされ、神殿・教会とされるのである。自らを主のみ手に委ね、主の体なる教会に仕えよう。

2015/10/17(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ 14:66-72  賛美 新聖歌32
 ぺトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14:31)と、強い信仰を告白していました。しかし、主が裁判を受けられるに至って、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と言う女中の言葉に狼狽し、三度もイエスを否認してしいました。これは主が予告された通りでした。(14:30)信仰を告白すべき時にぺトロは簡単に主を否んでしまったのです。人間の決心のもろさを見せつけられるのです。しかしその後ぺトロは本心を取り戻し、主を否んだ罪を悔い改めました。それによって主イエスに留まることが出来たのです。(?コリ7:10)私たちもぺトロと同じ弱さを持っています。罪を知ったならすぐに悔い改めて主に立ち返りましょう。”,,1176″