2020/6/8-13

 2020/6/8(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:12-27 賛美 新聖歌 181

 「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。」と記されている。イエスを捕らえるために遣わされた者たちにイエスが「だれを捜しているのか」と言われた時、彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。それを聞いた彼らは「後ずさりして、地に倒れた。」と記されている。またぺトロが大祭司の手下に打ち掛かり、その右の耳を切り落とした時、イエスはその耳に触れていやされた(ルカ 22:51)。イエスを捕らえるために遣わされた者たちは、イエスの神的権威と力に触れながら、イエスを神と認めることはできなかった。かつてイエスを捕らえるために祭司長たちとファリサイ派の人々によって遣わされた下役たちは、イエスに触れ、その言葉を耳にした時、「イエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。」(ヨハ 7:44)のであった。パウロは「悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。」(?テモ3:13)と警告している。福音に対して心頑なにする人々に注意しょう。
 

2020/6/9(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:3  賛美 新聖歌 166

 ニネベ宣教を命じられたヨナは即座に立ち上がって出発した。行くべき方向へではなく、正反対の方向へ向かっていった。ニネベはヨナから見て東の方向であったのに、彼は西方向に位置する海岸沿いのヤッファへと出かけた。彼はヤッファに下り、ちょうどよい船を見つけて船の中に降る。人々の中に紛れ込む。ヨナは一体何から逃げていたのか?単純にニネベの邪悪で大きな町から逃げていただけではなく、高きところである天におられる神、主から逃げていた。
 誰が神から逃れられるだろうか。詩編139編もどこに行こうとも主の霊から逃れられる場所はないと語っている。ヨナはまことに身勝手な理由でニネベと神から逃げようとした。しかし、神の召しが自分の意志と異なるときに逃亡しても解決にはならない。神の命令と向き合い、御心を求め、従うことが出来るように神の力を求めよう。
 

2020/6/10(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:12-27 賛美 新聖歌 260

 イエスは捕らえられ、縛られ、アンナスのところへ連れて行かれ、裁きの場に立たされた。ぺトロが大祭司の手下に打ちかかって、その片方に耳を切り落とした時、イエスは「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタ 26:53-54)と言われたことが示しているように、イエスの非力によるのではなく、へりくだりと父なる神への従順であられるイエスの意志によるのであった。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリ 2:6-11)と述べている。またぺトロは「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」(?ペテ3:18)と述べている。イエスのへりくだりと従順によって今私たちは罪の赦しと永遠に命に預かっているのである。
 
2020/6/11(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:3-4  賛美 新聖歌 345
 なんとも皮肉な様子である。船に乗り込み、これで神から逃れられると思ったヨナは船出すると安心して船底で寝ていた。嵐が来て船乗りたちが怯えきってできる限りの対応策を取り、それでも命を守り切れないと思った彼らはそれぞれの神々に助けを請い願ってさえいた。しかしこの突然の嵐の真相を知っていながら寝ている―どうにでもなれと開き直っていたのか、ふてぶてしくも神は自分の命を取らないと思っていたのか。
 真の神を知り、自分の背きのゆえにこのことが起こっていると知りながら悔い改めず神に祈らないヨナと、真の神を知らないながらも自分の力では命を守れないことを知ってそれぞれが信頼を置いている偽りの神々に必死にすがり求める人々。どちらが敬虔で信仰深いのだろうか。クリスチャンとして「真の神について知っている」だけでは意味がない。真の神に献身し、信頼して神の御心に従い、神に頼り神の助けによって進むことが求められている。社会では突然病気が蔓延し、新しい生活様式を求められ、世界では暴動までが起こっている。そのようなときに真の神を知っているクリスチャンこそが立ち上がり、祈り求め、神に従うという行動を示す者でありたい。
 

2020/6/12(金) 担当 高谷清師 詩 52:10-11  賛美 新聖歌 355

 神を力と頼まず、自分の莫大な富に依り頼み、権勢をほしいままにしていた「力ある者」、彼は自分を滅ぼすものを力と頼んでいたのである。「力ある者」の破滅をまのあたりにして、神に対する信仰に生きる自らの幸いを「わたしは生い茂るオリーブの木」と言い表す。詩編1編の作者もまた「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩 1:1-3)と詠っている。ヨハネも「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハ 3: 36)と語っている。一足一足主イエスに従って歩もう。それが世人の目には華やかな歩みではないにしても。
 

2020/6/13(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリ5:16-21賛美 新聖歌 262

 キリストの死と復活がキリスト者の土台である。キリストにあって罪に死に、義とされて生きることは、神からもたらされたキリストにある新しい創造である。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになったのである。パウロはこの重大な使命を自覚しているので生涯を通して「神と和解させていただきなさい。」と語り続けた。キリストによる神との和解の恵みに与っている私たちも日々の生活を通してこの恵みを証しし続けよう。