2020/6/1-6

2020/6/1(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 320

 イエスを捕らえる者たちが立ち上がった時、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは「『わたしである』と言ったではないか。」と言い、更に「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」と言われた。ヨハネは「それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。」と付け加えている。この場面についてマタイは「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マタ 26:56b)と述べ、マルコは「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マコ 14:50)と述べている。イエスと心を同じくし、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした弟子たちが捕らわれなかったのはイエスの言葉によるのであり、その御言葉にあるイエスの神的権威によるのである。かつてイエスは弟子たちに「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マコ 10:45)と教えられた。イエスが十字架に進まれたのは世の力に屈したのではなく、ご自分の意志によるのであり、ご自分を信じる者を悪の力から守ることがおできになるのである。

 

2020/6/2(火) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書19節〜21節  賛美 新聖歌269

 オバデヤ書の最後には神に選ばれた全イスラエルの回復が語られている。イスラエルが最終的には土地を所有すると宣言されるが、それは南ユダ王国からの捕囚民だけではなく、北イスラエル王国から捕囚になった民にも与えられる。最終的に神の民がシオンの山に集まり、現実にはエルサレムの崩壊を見て喜んでいたエサウを裁く。

 これは最終的に歴史的、地理的地平を超えて主なる神の支配のもとにすべてが服するという宣言になる。義なるお方である神が最終的にはシオンから全地を支配し、悪を行う者を公平をもって裁かれる。今の時代にもまだ神の完全な支配はこの地上で行われてはいないが、み言葉に記された言葉に立って、神の定められた終わりの時に神の公平で義なる裁きが打ち立てられる。その日を望み見つつ、忠実に、主を見上げて、人々のためにとりなし、救いのみ言葉を語ろう。

 

2020/6/3(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 384

 眼前で進行する出来事を見ていたぺトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。するとイエスは「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と言われた。この箇所について桑原昭師は「主の深いみこころを知らない人間の浅はかな頑張りが、ひとつのハプニングをひき起こす。弟子たちは、自分たちがイエスによって守られているということに全く気づいていない。むしろ逆に、自分たちがイエスを守ってあげねばならないと考えている。しかもその守り方たるや、イエスの意図やなさり方とは全く違うものだったのである。ベテロは剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、その耳を切ってしまうのである。その行為は.あるいは、動機において主を守ろうとする熱心と真心があったのだという美しい言葉でもって言われ得るかも知れない。しかし私たちは、もっともっと深い所において、それは全く愚かな仕打ちであったということを知らねばならない。どんなに熱心そうであったとしても、それは真に深い所において主にふさわしいものではない、浅はかな、衝動的な行為であり、主が取ろうとされる道をふさごうとするようなものだったのである。さらに、イエスは、人を傷つけ、殺そうとして、自分が助けられることを望み給うであろうか。イエスはここでぺテロをたしなめることによって、人々が自分の衝動や思いつきからやって行く軽薄な行為をいましめられるのである。ぺテロは剣をもって神の御子を守ろうとした。ちょうどそのように、私たちもしばしば肉につけるものをもって主イエスやその教えを守ろうとする。しかし、主はそのようなことを願われず、私たちの肉につける勇気や気張りをもってご自分が守られることを願われない。しかもそれが人を傷つけ倒すようなものであることを決して許されない。そうであるのに、私たちは何としばしば、イエスを守り教会をたてるのだという口実の下に、実は自分の熱心を示すため、そして自己保身のため、人を傷つけ倒すようなことをしていることであろうか。そのような仕方は、ただに無益なだけではない。私たちはかえって、主イエスの進もうとされる道をさえぎり、主イエスの働きを妨げさえするのである。」(説教者のための聖書講解No3332日本基督教団出版局1980))と述べておられる。パウロはイスラエルについて「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。」(ロマ 10:2)と述べている。深く主と交わり、肉の思い、力ではなく、聖霊の導きに従って仕えて行こう。

 

2020/6/4(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:1-2  賛美 新聖歌325

 ヨナ書はこれまでに続けて読んできた多くの預言書と趣を異にする。ページのレイアウトを眺めても、ヨナは詩文として細かく改行が入るのではなく、物語形式で書かれていることが分かる。1節で主の言葉がヨナに臨んだと書かれているが、他の預言書のように伝えるべき使信の内容が記されているのではなく、ヨナに対する指示とヨナの応答が物語られている。

 ヨナの父はアミタイである。ここには詳しくは紹介されていないが、ヨナは列王記下14:25でも言及されている、ヤロブアム2世の時代の預言者であろう。ヨナに対して神は大都市ニネベに行って罪を犯す彼らに呼びかけよと命じられる。ニネベは悪に満ちた町であり、暴力で名高く、イスラエルも苦しめられた。そのようなところへ、救いを告げるために遣わされるヨナは、大きな葛藤を覚えつつ、どのように応答していくのだろうか。ヨナの応答とニネベでの働きを通して、宣教について共にみ言葉から聞きたい。私たちがヨナのように邪悪な街、好まぬ人々に福音宣教に遣わされるならば私たちはどのように応答するだろうか。

 

2020/6/5(金) 担当 高谷清師 詩 52:8-9  賛美 聖歌 481

 自らの富により頼み、権勢を背景に横暴の限りを尽くす「力ある者」に対する神の裁きは「神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き/命ある者の地から根こそぎにされる。」厳しいものである。この裁きを目の当たりにした神に従う人は、神に対する畏れを新たにすると同時に、義の勝利を喜ぶ。「力ある者」は自分の莫大な富に依り頼み、神を力と頼まなかった。しかしそれは自分を滅ぼすものであった。パウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(?コリ 15: 50)と述べ、更に自分の受けた恵みについて「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」(?コリ 4: 15)と述べている。

 私たちは神の恵みを受けて力と富を増し加えられる時、高ぶらず、傲慢にならず、益々謙遜になり、愛と真実をもって神と人に仕える者となろう。

 

2020/6/6(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 12:41-44 賛美 新聖歌 541

 賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられたイエスは一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れるのを見て弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われた。一枚は自分のためにとっておいても当然であると思われる。しかし彼女はレプトン銅貨二枚全部を献げた。これは律法に定められた義務としての献げ物ではなく、神に対する愛と信仰による献げ物であった。神にすべてを献げる愛と神以外の何者にも頼らず、自分を無条件に神に委ねた信仰は主のみ旨に適っている。律法に定められたものを義務的に献げる律法学者達とは対照的な信仰の姿である。私たちも常に神へのあふれる愛と感謝を信仰によって献げる者でありたい。