2015/2/9-14
- 2015.02.09
- ディボーションの友
2015/2/9 (月) 担当 高谷清師 ?コリ14:6-19 賛美 新聖歌 344
パウロは「だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう」と語り、教会においては預言をするほうが優っていることを明らかにする。ところで「啓示か知識か預言か教え」と語られていることについてカルヴァンは「預言とは、聖書をそのままに・単純に解釈することではなく、時に応じ、聖書を正しく適用して行く知識をも含むものである、と言った。このことは、啓示、すなわち、神の特別な霊感によらなければ行われないことである。(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P316新教出版社)」と述べている。ここに私たちが御言葉を読むとき、集会に集うとき、御言葉を伝えるとき、常に神に心を開き、祈りをもって為さなければならないことが示されている。
2015/2/10(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下22:1-9 賛美 新聖歌206
北王国に従って偶像礼拝に陥ったヨラム王が死んだが、恐ろしい時代はまだ終わらなかった。ヨラムを継いで末っ子のアハズヤが王となった。しかし彼は自分で神に従う道を歩まず、北王国の血を引く母アタルヤの悪い勧めを受け入れた。つまり、アハブの家の道を歩み(22:3)偶像礼拝を続け、神に背いて罪を犯し続けた。表面的には歴史上自然な流れでアハズヤは北王国のヨラム王の見舞いに行くが、そこでイエフに北王国の王と共に殺される。歴代誌は明確にこの出来事の裏に神の働きがあったことを述べている(22:7)。イエフは偶像礼拝と背信に満ちたイスラエルに対する神の裁きを行う者として神が選ばれた者であった。それは北王国だから滅ぼすというのではなく、神に背き、偶像に従った者を除き去るということであった。
ヨラムに次いでアハズヤが王になり、北王国の言いなりになる政治が横行し、正しい神礼拝が途絶えてしまったように感じられる状況において、生ける神は背後で働いておられた。あらゆる状況においても神は力ある方であり、定められたときに御心にかなう方であることを覚え、望みを主において歩もう。
2015/2/11(水) 担当 高谷清師 ?コリ14:6-19 賛美 新聖歌 38
続いて「異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」と勧める。パウロは12章10節において「異言を解釈する力」を霊の賜の一つとして数えた。教会の集会において神が異言を与えられる時、それを解釈する力をも与えられるであろう。だからパウロは「解釈できるように祈りなさい」と勧めるのである。そうでなければその異言は教会においては意味を持たないであろう。それ故、「種々の異言を語る力」の賜物を求める者はまた「異言を解釈する力」をも求めることが大切である。
2015/2/12(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下22:10-23:21 賛美 新聖歌373
アハズヤの死後、ユダには国を治めることができる者がいなくなった。その時アハズヤの母である北王国から嫁いできたアタルヤはこの空白に滑り込んで王となり、正当な王位継承の権利を持つ者をすべて殺した。彼女は自分がダビデの家系ではなく、不当な手段でこの地位を奪い取ったことを熟知していたのである。しかしその混乱の中で正当な王位継承者がただ一人、一人の勇敢な女性の行動によって生き延びた。それがヨアシュであった。この正当な王位継承者はしばらくの間かくまわれ、時が来たら祭司ヨヤダの指揮によって王として立てられた。歴代誌によるとこれは単なる軍事的放棄ではなかった。かつてダビデが即位した時と同様に軍隊の長たちがユダ全土からレビ人と氏族の長を神殿に呼び集め、計画が進められる。一度は途絶えたダビデの家の支配が、再度神のダビデに対する約束に基づいて始められるのである。そしてヨアシュは神殿において、主の戒めに従って(23:6)王として立てられた。
一度は崩壊したかに見えるダビデ家の支配と神の約束は、神を信じて仕える者が時にかなって信仰の行動を起こすことによって建て直された。人の目には一度途絶えると神のことばが無に帰したように見えるが、神は約束に対して忠実な方である。神は信じるに足るお方である。
2015/2/13(金) 担当 高谷清師 ?コリ14:6-19 賛美 新聖歌 316
また「わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。」と述べる。パウロは先に「異言を語る者が自分を造り上げる」と語った。異言は霊なる神との交わりであり、霊的成長をもたらすであろう。しかし、私たちの理性は異言を理解できず、従って実を結ぶことが出来ない。この箇所についてレオン・モリスは『「異言」で祈る者は、自分の知性を用いてはいない。クリスチャン生活は、知的活動をはるかに越えたものではあるが、その知性が「実を結んでいない」なら、そういった者がクリスチャンの召命に対して真実であるとは言えない。ここは、知性の占めるべき正当な位置を強調している点で、たいへん重要な箇所である。(ティンデル聖書注解コリント人への手紙第1P232いのちのことば社)』と述べておられる。理性が実を結ばなければ霊を見分けることはできない。それによって幾多の混乱と破局がもたらせてきた。異言で祈ることは大切なことではあるが、知性でもしっかり祈り、実を結び、健全な信仰生活を歩もう。
2015/2/14(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 5:1-11 新聖歌316
主は群集に話し終わった時、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。漁師たちは夜を徹して働いたが何もとれず、疲労困憊し、諦めていた。シモンたちは漁の専門家であり、この道については知り尽くしていた。心の中で、主イエスといえども無経験な漁については自分たちのほうが上、と思ったかもしれない。しかしシモンは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、そのとおりにするとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
人間の限られた知恵、力、経験・・・等に頼らず、主の言葉に信頼し、従うことが大切である。”,,1127″
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