2016/8/1-6

2016/8/1(月) 担当 高谷清師  ?ペテ4:7-11  賛美 新聖歌 373
 「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」と命じたペトロは「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。」と勧める。人は各々神から賜物を与えられている。それによって奉仕をするわけであるが、それは神がお与えになった力に応じてするべきである。サウルはサムエルの到着が遅いのを待ち切れず、自分で犠牲をささげてしまい、王権崩壊への道を開いた。私たちは与えられた賜物を用いて奉仕をするのであるが、それは聖霊の導きの中で行われるべきである。それは私たちが人々から喝さいを受けるのではなく、神が栄光をお受けになるためである。自分の栄光ではなく、神の栄光の顕されることを求めて仕えよう。

2016/8/2(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書44:1-8 賛美 新聖歌19
 43章後半ではイスラエルの罪が列挙された。これほど神に逆らい、罪を犯し続けたイスラエルに対して神は再び「わたしの僕ヤコブよ/わたしの選んだイスラエルよ」(44:1)と呼びかけられる。彼らは最初から神に選ばれていた。そしてその選びは彼らの度重なる罪にもかかわらず、変わることはなかった。彼らの選びは、神がかつてアブラハムに約束されたように遠い将来の世代にも及ぶ。なぜ神はこれほどまでにイスラエルに対して忠実であられるのだろうか。神の掟に従わなかった民を見捨てることはなさらなかったのだろうか。それは神ご自身のご性質のゆえである。神ご自身が真実な方であり、比べるものの無いお方であり、初めからおられた創造者であり、ご自身の栄光を世に示される方だからである。
 私たちも含めたすべての人々が同じ神の赦しの中で愛され、十字架の業によって関係を回復されて生かされている。神の憐れみに感謝しよう。

2016/8/3 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ4:12-14 賛美 新聖歌 445
 主イエスは弟子たちに「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ16:33)と教えられた。またパウロは「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(?テモ3:12)と述べている。それはキリスト者が世に属するものではないからである。従って私たちの上に試練が降りかかるのは驚き怪しむべきことではない。それは私たちの信仰を鍛え、より確かなものとするからである。パウロが「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:3-5)と述べているとおりである。それ故、私たちの上に試練が降りかかる時、慌てふためくことなく受け止め、喜びをもって対処しょう。栄光の霊、すなわち神の霊が、私たちの上にとどまってくださるからである。

2016/8/4(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書44:9-20 賛美 新聖歌38
 金、土、石、木など素材は何であれ、丁寧に彫り上げて形作られた像には何かしら不思議な力があると多くの人は感じる。そして「これが神である」と言われればそう信じて心を込めて拝み始める。しかしイザヤ書ではこれらは無力な一作品に過ぎないと言われる。これは人の手で作った物であって必要に迫られれば人はそれを破壊して役に立つように使われるといったモノに過ぎない。人の思い通りに使われる形を刻み込まれた素材が本当に神であろうかと、ここでは皮肉を込めて問いかけられている。
 注意しなければならないのは、冷静に考えれば神ではなくありふれた素材であると理解できるものも、刻まれた像を見せられて神であると教えられれば何か力ある物であるのように感じてしまうということである。真の神とはいったいどのようなお方なのか、人の手で刻まれたモノではないのだということを心に留めて偶像礼拝に陥らないよう注意しよう。また偶像礼拝に陥っている人々を嘲るのではなく、彼らの霊の目が開かれて真の神を受け入れられるよう祈ろう。

2016/8/5(金) 担当 高谷清師  詩編25:1−5  賛美 新聖歌 205
 本詩編について小畑進師は「これを題詞どおりダビデの作品とすると、あとに、「私の若い時の云々」ということばが出てくるところから(七節)、詩人は年齢を重ねていたのであり、晩年に勃発したアブシャロムの乱の時と思われます。「恥」という文字が再三しるされているのも、実の息子に追われるという屈辱のさなかに本篇が産み落とされたことを物語っているようです。」(詩篇講録上P284いのちのことば社)と述べておられる。ダビデは羊飼いであった時神に召され、常に神に従って歩み、サウル王の激しい迫害にも耐え忍び、神によって守られ、イスラエルの王位についたのである。周辺諸国との戦いに次ぐ戦いにも、自らの力を頼みとせず、主により頼み主によって勝利を得たのである。ようやく平安を得たのも束の間、愛しいつくしみ育てた息子アブサロムに背かれ、都を追われ逃げ惑うと言う悲劇に襲われたのである。心血を注ぎいつくしみ育てたその業に迷いが生じたのである。そのような中に在って彼は神の前に祈るのである。彼は先ず「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み わたしの神よ、あなたに依り頼みます。」と信仰を告白する。そして「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください」と求める。そして再び「あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています」と信仰を告白する。
 主イエスもまた愛弟子ユダによって裏切られ、十字架に至ったのである。心血を注いで導きそだてた者がある日突然徒党を組み対立し分裂を引き起こす事態が起こる。牧会者の痛み、教会の痛みは筆舌に尽くしえないであろう。そのような時、主に道を求め、従い、絶えることなく神に望みをおいて歩むことこそ信仰者の道である。

2016/8/6(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリ9:24-27 賛美 新聖歌455 
 世界中の人々が待ちわびていたリオオリンピックが開幕しました。出場選手たちは日々節制し、厳しい練習に耐え、努力を重ね、勝利を目だしています。オリンピックにおいて協議をするのは一時のことですが、それまでには幾年間にもわたる努力と節制があります。パウロはクリスチャン生涯を競技者にたとえて日々励むことを勧めています。オリンピック選手の得る栄冠は一時的で忘れられ、朽ちていきます。しかし、クリスチャンに与えられる栄冠は朽ちることの無い永遠の命の冠です。私たちはこの栄冠を授かるために日々自分の体を打ちたたいて服従させ、キリストに従いましょう。”,,902″