2016/7/25-30

2016/7/25(月) 担当 高谷清師  ?ペテ4:7-11  賛美 新聖歌 425
 続いてぺトロは「不平を言わずにもてなし合いなさい」と命じる。この箇所を新改訳聖書は「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」と訳している。この箇所について小畑進師は「親切な人、ねんごろな人―-と言って誰を思い出すでしょうか。面白い人、きれる人、しっかり者、熱心な人、そして親切な人―-。親切な人というのは、よく気がつく。気くばりがきかなくてはならない。次に自己中心ではできない。自己より他人を思う人でなければならない。また、ふところ手の人ではできない。すぐに手足が働く人でなければできない。親切という徳は三位一体。よく気がつく鋭敏さと、隣人への関心の過敏さと、行動の機敏さが一体とならないと。旧約のルツ、ボアズ。新約のバルナバ、アクラとプリスカ夫妻たち。気はつくけれども自分の都合を思うと、そのままで終わる。隣人への関心は持ち合せているが、目がうるむだけ。隣人への関心は並々ならず、尻も軽いが、どうも間尺に合わない。気くばりの鋭敏さと、隣人愛の過敏さと、行動力の機敏さと。この「知」・「情」・「意」が磨かれてこそ、「愛」という観念は「親切」という具体的な形で明らかにされる。それもブツブツ肱きながらでは台なしになる。「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」。ここに「愛」を確かめる物差しを発見した気持ちです。私たちの「愛」が、知力と同情と意気の三つの面において、その力を発障できますように!」(小畑進著作集第5巻ペテロの手紙第一講録P382−383いのちのことば社)と述べておられる。愛は具体的行動によってあらわされることが必要である。

2016/7/26(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書43:16-20 賛美 新聖歌419
 イスラエルの民は過ぎ越しの祭によってかつてのエジプトからの解放を思い起こして神に感謝をささげた。また詩編136編に見られるように礼拝をささげるときに、歴史を通して神がなしてくださった御業を思い起こすことによって神への信仰を再確認しながら神と共に歩んできた。しかしここでは昔のことを考えるな、過去を振り返ってかつてなされた神の御業に固執することを止めなさいと言われる。これはイスラエルにとっては驚くべき命令であった。しかしここでは神の恵みをすべて忘れて神との関係を断ちなさいと言われているのではない。むしろ、過去の思い出にとらわれて、さらに偉大なことがおできになる神に期待をすることを恐れてはならないと言われている。
 信仰生活にはバランスが必要である。これまでに受けた恵みを振り返りつつ感謝をささげて、さらに神との親しい関係を築くことが大切である。それと同時に、見たこともないさらに大きな御業をおできになる神に望みを置いて日々期待しつつ主に頼ることを恐れない者でありたい。

2016/7/27 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ4: 7-11 賛美 新聖歌 373
 「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」と記されている。この箇所について小畑進師は「〈所有者〉と〈管理人〉とは違います。私たちの賜物の所有者は主なる神です。私たちは委託された賜物を管理運営する者なのです。主なる神の御意にそって。ガリラヤ湖は、その水をヨルダン川に流し、沿岸を潤します。それゆえに魚は種類も量も多いのですが、水を受けるばかりで、ひとり占めしている死海は文字どおり死せる海です。」(小畑進著作集第5巻ペテロの手紙第一講録P385いのちのことば社)と述べておられる。人それぞれに委ねられた賜物は異なる。見栄えの良い賜物もあれば目立たないものもある。しかし主は忠実な者と見なしてこの賜物を委ねてくださったのである。私たちはそれを愛によって管理しよう。

2016/7/28(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書43:21-28 賛美 新聖歌111
 過去に見たこともない、偉大な業をなしてイスラエルを祝福してくださる神に対して、民がなすべきことは神の栄誉を語ることである(43:21)。しかしこのことはいつの時代にも民が失敗を繰り返してきたことであった。彼らは神を「重荷」とし(43:22)、定められた礼拝を規定に従ってささげることができず、神に喜ばれることはなかった。反対にそのことによって民自身が神の「重荷」(43:24)となってしまったとは、なんとも皮肉であった。本来不適切ないけにえによって神に受け入れられない礼拝をささげたならば彼らの罪を清められることはないのであった。しかしそのような者に対しても神ご自身がその罪を拭い去り、過去の罪を思い出さないということを選び取ってくださる。なんという恵みだろうか。
 日々できる限り心を尽くして最善を尽くして神に仕える努力を私たちは決して怠ってはならない。しかし、それでも力及ばずに神に喜ばれない礼拝、行為を行ってしまったならば、そのことをも赦すと決意してくださった神に対して悔い改め、赦しを得て歩み続けよう。

2016/7/29(金) 担当 高谷清師  詩編22:28−31  賛美 新聖歌 392
 弟子たちの切なる祈りと願いもむなしく、主は十字架上で息を引き取り埋葬された。主を慕っていた婦人たちは最後の眞を尽くすべく、安息日の終わるのを待ちわび、早朝用意した香料を携え墓に向かった。墓についた婦人たちにみ使いは「復活なさったのだ」(マタ28: 6)と宣言し、主はマリアにご自身を顕された。その後主はご自分が生きていることを、四十日にわたって弟子たちに示した後、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ 28:18b―20)との命令を残して天に帰って行かれた。弟子たちは詩編の作者が「王権は主にあり、主は国々を治められ」ることを確信し、聖霊の注ぎを受け、全世界に向かって証人として出て行ったのである。私たちも今「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。」と歌った作者の信仰告白を自らのものとし、世に向かって主を証ししていこう。

2016/7/30(土) 担当 高谷由紀子師 マタイ18:1-4 賛美 新聖歌394 
 キリスト者は二つの国籍を持っている。第一は地上において自分の所属する国家の国籍である。それによって国家から生命・財産を保護され、安全な生活を与えられる。そのために、当然ながら国家に対して義務と責任を負っている。キリスト者は信頼される良き市民でなければならない。市民としての義務を怠ることは神の御心ではない。同時に天に国籍を持つ者として責任ある生活をすることが求められる。地上に在って神の栄光を顕す生活が求められる。主は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われた。”,,963″