2020/8/24-29

 2020/8/24(月) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 新聖歌 346

 イエスは王であることを知らされている教会において日々「イエスは王である」という歩みがなされているであろうか。イエスを王とする歩みについて西間木一衛師は「「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と約束された主が、教会において真実に仰がれている、主として礼拝されているということである。「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」〈ヨハネ6:68〉という信仰の告白が心からなされていることである。礼拝において語られる説教が、キリストを王とする喜びと確信をもってなされ、信徒を強めるということである。」(説教者のための聖書講解No33P55―56日本基督教団出版局1980)と述べておられる。また、ヴァルター・リュティは「どんなに崇高な仕事をなし、聖なる目的を達成するとしても、神が人間の役に立たなければならないということ、「有用な」神、人の言いなりになり、役に立つ神を手に入れたいと人間が望むこと、このような形で神の御名は根本的に誤って用いられることになるのです。(中略)敬虔な人は日々至るところで、自分が何かある牽引車のように神を用いようとしていること、いわば自分のために神に下働きをさせていることに気づくようになります。神の僕たちであっても、この誘惑から自由ではありません。」(十戒 教会のための講解説教P49新教出版社2011)と述べている。イエスは王であられる。イエスは主であられる。人間はイエスに仕えるべき存在であって、イエスは人間の欲望達成のために利用すべきお方ではない。
 
2020/8/25(火) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:1  賛美 新聖歌166
 これからミカ書を読んでいく。ミカ書はユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に与えられた主の言葉であると記しているが、これはイザヤ書1:1に記されている王の名前と重なっている。この時代はイスラエルとユダの人々にとって決して良い時代ではなかった。王国が南北に分裂して以来、それぞれが国家として存続していた。そしてこの時代には南方と北方に位置するそれぞれのエジプト、アッシリアという大国がパレスチナの小さな国々を脅かし、イスラエルとユダも時流に即してどちらの大国につけば生き延びられるかという政治的な駆け引きの渦に放り込まれていた。そして北王国がついにアッシリアによって滅ぼされてしまった。
 このような時代に国の苦境に直面して信仰が揺らいだ。そのようなときに神は預言者を通して何を語られたのだろうか。小著でありながら私たちの信仰にとって大切な公義、平和、メシアなどについて語るミカ書から深く神の言葉を聞きとることを期待し、祈りをもって読んでいきたい。
 

2020/8/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ 19:19-22 賛美 聖歌 606

 西間木一衛師は「教会の中では、キリストが王であることが顕わにされているが、この世界の中ではそれが隠されている。(中略)教会は、この世に、イエスこそ主であることを知らせなければならない。(説教者のための聖書講解No30P55日本基督教団出版局1980))と述べ、宣教について「教会が悔い改めと服従をもって、キリストが主であることを示さなければ、どうしてこの世に、キリストが王であることを指し示すことができるだろうか。更に、キリストがこの世の主であることを信じ、証しするとは、この世が教会に対してどのような態度をとろうとも、教会はこの世のために執り成しの祈りをする、ということである。教会は自己の罪を告白すると共に、この世の罪の赦しを祈るのである。」(説教者のための聖書講解No30P56日本基督教団出版局1980)と述べておられる。御子の血潮によって罪赦されたとはいえ、肉体をもって罪の世に生きる私たちは罪を犯さずには生きることの出来ない弱い存在である。み言葉と聖霊の光の中で日々謙虚に悔い改め、神との正しい関係に生きることが求められる。世に対しては裁くのではなく、御子がわたしたちを愛してくださったその愛をもって御言葉を証しし、神に執り成すことが求められている。聖霊の導きと助けを得て、求めにふさわしい歩みをしょう。
 
2020/8/27(木) 担当 ラウジー満世師 ミカ書1:2-4  賛美 新聖歌38
 ミカ書に語られる神の言葉は最初から衝撃的な表現で始まる。「聞け」と命じられるのはイスラエルとユダだけではなく全世界の民である。さらに人間だけにとどまらず大地とそれを満たすもの、すなわち神によって造られたすべてのものにもこの命令は語られている。続いて神が来られ、地に立たれる。聖なる神が来られるときには被造物である自然も影響を受ける。山々は溶け、地が裂けるほどの圧倒的な神の聖なる臨在である。神が直接語られる時に人々も自然もすべてはその偉大な力と臨在に圧倒され、影響を受ける。この神が権威を持って語られる言葉に、私たちはただただ圧倒的な力を知り、聞き入るのみである。
 神の言葉には力がある。そしてその言葉を語られる神も圧倒的な力をもったお方である。神の言葉を聞くことは恵みであると同時に、聞く私たちがこの偉大な神の力を正しく知り、怖れをもって聞くことを促される。今一度神の前に立ち、神の言葉を聞くことの意味の重みをしっかりと受け止めよう。
 
2020/8/28(金) 担当 高谷清師 詩 55:24  賛美 新聖歌 216
 試練と迫害の中に在って神に祈り訴えてきた詩人は「あなたの重荷を主にゆだねよ」という言葉に導かれ、「わたしはあなたに依り頼みます」という信仰告白をもってこの詩を閉じる。詩篇62篇においても、詩人を故なく亡きものにしようとして一団となり襲いかかる者たちの中に在って、「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩 62:9)と詠っている。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12: 19)と述べ。更に「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(ロマ 12: 20)と述べている。
 わたしたちの生きる世は不義と不条理に満ちている。それを見ると何らかの制裁をしたくなる。その不義、不条理が直接自分に降りかかると復讐したくなるのが人間の常である。しかしキリストの贖いの恵みの内にある者に求められるのは愛することである。神の大いなる愛の故に愛され得ざる者が愛され、死すべきものが永遠の命に預かっているからである。
 
2020/8/29(土) 担当 高谷由紀子師 ?コリ4:7-15  賛美 新聖歌 172
 死から復活されたイエスは「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マコ 16:15)との宣教命令を与えた後、天に上げられ、神の右の座に着かれました。この命令を受けた人々、とりわけ肉をもって地上を歩まれたイエスと寝食を共にし、親しく薫陶を受けた者たちは使徒として福音宣教に邁進していきました。後にパウロもイエスに召されて使徒に加えられました。その宣教の歩みは迫害と苦難に満ちたものでした。その苦難を乗り越えさせる力は「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださる」との信仰でした。

 私たちも信仰生活において苦難に遭遇することがあります。そのような時、パウロの信仰に倣って復活の主を仰ぎ、その力によって勝利を賜り、前進しましょう。