2017/1/2-7

2017/1/2(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:14  賛美 新聖歌 233
 「わたしたちはその栄光を見た。」と語ったヨハネはその栄光について「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と語る。ヨハネは主イエスのカナの婚礼における奇跡の記事で「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を顕された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」(ヨハ 2:11)と述べている。そしてイエスが行われた多くの力ある業を記し、それによって御子の栄光を伝えている。また、病める人を癒し、悪霊に憑かれた者を解放し、それによって恵みを顕された。主は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14:6)と教え、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハ8:32)、「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」(ヨハ 17:17)と語っておられる。主イエスによって、十字架の恵みによって罪人は赦され、自由にされ、聖められ、永遠の命を受けるのである。

2017/1/3(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書59:15後半-21 賛美 新聖歌366
 主が人の業に従って報いを与えるために地を見渡しておられる。武具を身に着けて地を見渡し、人々の行いを吟味しておられる姿に私たちはたちどころに安堵を感じるよりも、緊張を覚える。自分の業は主の目に受け入れられるのか、否か。最終的に21節では主が結ばれる契約、すなわち救いについて語られるが、それはイスラエルの民全体に無条件に与えられるのではない。イスラエルの民か、そうでないのかは問題とされておらず、むしろ「罪を悔いる者」であるかどうかが問題とされている。
 主は人の心を見られる。一度も罪を犯したことがない人を尋ね求めるのではなく、その罪を悔いているかどうか、すなわち悔い改めがあるかどうかを見られる。信仰者であるという事実に安心するのではなく、日々主の前で私たち自身の心を見極め、へりくだって歩む一年でありたい。

2017/1/4(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:15  賛美 新聖歌 427
 ヨハネは主イエスについて「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」と証言する。肉において見るなら主イエスはヨハネよりも6箇月遅れてこの世にお生まれになった。それにもかかわらずヨハネは「わたしよりも先におられたからである」と語っている。これらのことを通してヨハネは主イエスが永遠の初めからおられる真の神であることを明らかにしているのである。また、主イエスが真の人であることを証ししているのである。真の神であり真の人であるお方、このお方だけが世を救うことがおできになるのである。主イエスキリスト以外に、全宇宙に救い主は存在しない。

2017/1/5(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書60:1-3 賛美 新聖歌343
 これまでの裁きのメッセージとは一転して救いが語られる。暗闇と絶望の中にある民に、彼らを照らす光である主の栄光が輝く。いつの時代でも闇では悪がはびこる。明るいときには安全な場所も暗闇につつまれるとさまざまな危険が潜む。また暗闇の中では人は身動きすることもできない。イスラエルの民は自分の罪により、自らを暗闇に閉じ込めていた。預言者が救いのメッセージを語っても悔い改めることができず、救いが実現されなかった。苦しみもがく彼らに対して主の栄光が輝くという。その時、神の光を受けて彼ら自身が光を放つことができる。イスラエルに向けられるその光とイスラエル自身の姿を見て、他の国々までもがそこに集まってくる。
 罪の中で苦しむ人々も光を求めている。どんなに立派な人であっても人に光を与えることはできない。光の源はただ神のみである。

2017/1/6(金) 担当 高谷清師  詩編28:8-9  賛美 新聖歌 165
 冒頭の「神の子らよ」という表現について新改訳聖書は「力ある者の子らよ」と訳し、岩波訳は「神々の子らよ」と訳し、口語訳、フランシスコ会訳は共に「神の子らよ」と訳している。そしてフランシスコ会訳は「本詩の前身と思われるカナン詩においては、「神(ここでは「エル」)の子ら」は、最高の神「エル」の下に位する神々の意味であろう。イスラエル時代には、この表現は、神をとりまく廷臣としての天使たちをさしたものと思われる(ヨブ1a参照〉。後には、信心深い有徳の人々に適用されるようになった。」と記している。またカルヴァンは「強者の子らよ」と訳している。そしてそれは自分の力を誇り、これに頼り、神に従わない指導者たちを指すと解釈している。神はそのような世に対し雷鳴と嵐等、天変地異をもって圧倒的なご自身の力を示し、ご自身が主であることを示される。今日、人類は科学技術の発展を誇り、神を排除しょうとする。しかし今日相次ぐ天変地異を見るとき、営々として築きあげた堤は一瞬にして破壊され、ビルは倒れ、大水は地を覆う。それによって神こそ支配者であり主であることが示される。私たちは自らを低くし、栄光を主に帰し、み名を賛美しょう。

2017/1/7(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 10:25-28 新聖歌 398
 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と問う律法の専門家に対して主は「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問われ、律法の専門家は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えました。それに対してイエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言われました。主は全世界の人々を愛してその救いのために十字架に架かってくださいました。この主が「隣人を自分のように愛しなさい」と言っておられるのです。私たちが会ったこともない遠くの人々をではなく、私たちの傍にいる人々、隣近所の人々を、学び舎で共に学ぶ友人を、職場で共に労する人々を愛することが求められているのです。理想論ではなく、現実に助けを必要としている身近な人々を、口先だけではなく行動をもって愛する人になりたいものです。”,,876″