2017/1/9-14

2017/1/9(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:16-18  賛美 新聖歌 270
 ヨハネは「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、」と語る。パウロは「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。」(コロ 2:9-10)と述べている。更にヨハネは言葉をつないで「恵みの上に、更に恵みを受けた。」と語る。キリストにおける恵は深く豊かで無尽である。新しい年を迎えてまた新たに聖書の通読を始められた方も多いであろう。神のことばは何回読んでも、私たちの信仰の成長に合わせて新たな恵みへと導くのである。無限の神の恵みに感謝しょう。そして、絶えざる神との交わりによって常に満たされていよう。

2017/1/10(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書60:4-14 賛美 新聖歌165
 驚くほどのイスラエルの回復が記されている。かつて捕囚の地に連れ去られた人々の子孫はエルサレムに帰ってくる(60:4)。その民のもとに諸国から様々な特産品がもたらされる。イスラエルの敵はすべて滅び、イスラルの繁栄とは対照的に敵対する国々は滅びる。考えられないほどの繁栄と祝福である。これらは決してイスラエルの民が優れていたから、あるいは主の前に完全な者となったから与えられたのではなかった。もたらされた富は民が受け取り、その自尊心と欲を満たすために用いられるべきものではなかった。それらは主の祭壇にささげられるべきものであった(60:7)。イスラエルに繁栄がもたらされるという約束はただ彼らの神、主の御名のためであった。イスラエルの聖なる神のためなのである(60:9)。
 今の時代に生きる神を信じる私たちも繁栄と祝福を求める。神は御心に適うときにそれを与えて下さる。それを受け取る時に決して忘れてはならないことは「イスラエルの聖なる神のため」である、すなわち祝福を受けた信徒を通して神の御名があがめられるためである、という一点である。主の御名があがめられますようにという祈りをささげ続けよう。

2017/1/11(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:16-18 賛美 新聖歌 225
続いてヨハネは「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」と語る。律法はモーセを通して「与えられた」のである。モーセは神に律法をイスラエルの民に取り次ぐ仲介者であった。律法は神と人、人と人とのあるべき関係が示され、真理が示されているが、それは人を罪に定めるものであった。しかし恵みと真理はイエス・キリストを通して「現れた」のである。神の御子が肉体をとって世においで下さることによって恵みと真理が私たちの間に現れたのである。それ故、御子イエスは人々に罪の赦しを宣言し、人々を罪から解放することがおできになるのである。

2017/1/12(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書60:4-14 賛美 新聖歌340
 再びイスラルのかつての捨てられた姿を描き、そこから神によって変えられ、主を知る者とされていく姿が記されていく。イスラエルを回復してくださるのは神である。そのイスラエルを照らす光は満ち欠けすることのない太陽、しかも再び沈まない太陽のような神の光である。神の光は決して失われることはない。確かにここに約束されている。人は常にその約束の実現の時を知り、体験したいと願う。それに対して神はただ定められた「時が来れば(22節)」とだけ答えられる。人は神の約束を信じて歩むことを求められている。

2017/1/13(金) 担当 高谷清師  詩編29:5-8  賛美 新聖歌
 主がみ声を発せられる時、北方の山岳地帯も主のもとにひれ伏す。レバノン自慢の杉の木も砕かれ、シルヨンも制圧される。主イエスの十字架の場面を見るとき、祭司長や長老たちに扇動された群衆は「十字架につけろ」と叫んだ。主を十字架につける任務にあたった兵士たちはイエスに赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱した。十字架の前を通りかかった人々や一緒に十字架につけられた強盗たちも「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」とイエスを罵った。しかし、昼の十二時に、全地は暗くなり、イエスが息を引き取られた時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返るのを見た百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。復活の主はトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語っておられる。

2017/1/14(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 9:33-37 新聖歌 355
 主イエスはご自身が十字架につく時が近づいていることをご存知であった。そのような時、弟子たちは、だれがいちばん偉いかと議論し合っていた。彼らは主のことよりも自分自身の地位や名誉のことを気にかけていたのである。このような彼らに対し主は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と教えられた。そして主は一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われた。子供は未熟であり、弱い存在である。この世で弱い者、軽んじられている者に仕える者こそ、神を受け入れるものである。仕えられる者ではなく、仕える者になりましょう。”,,913″