2012/12/14-29

 

2012/12/24(月) 担当高谷清師 ルカによる福音書 2:8-20  賛美 聖歌 128
 今日は2012年のクリスマスイブである。ルカはここに最初のクリスマスイブの出来事を伝えている。草木も眠ると言われる真夜中、人々が寝静まる中、寒風が吹き付け冷え込む荒野で野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が現れ、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告げたのである。そして天使たちに天の大軍が加わり、神を賛美して言った「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と。告げられた羊飼いたちは早速ベツレヘムに赴き、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのである。
 主の降誕を天使たちは「民全体に与えられる大きな喜び」として伝えたのであり、救い主にお会いした羊飼いたちは神をあがめ、賛美したのである。聖書は他の個所で『「その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である』と言っている。神の臨在の内にあることは我々の心に喜びを満たすのである。今日は幸い、休日である。世の喧騒を避けて祈りをもって主と共に過ごし、喜びに満たされよう。
 

 

2012/12/25 (火)担当 高谷満世師 イザヤ9:2 賛美 讃美歌112 もろびとこぞりて
 一年で昼がもっとも短くなり、夜が最も早くなる日。この時期にクリスマスを祝う。主のご降誕を記念して、喜び、祝い、礼拝を日である。まさに御子イエス・キリストのご降誕と光は切り離せない。
 主がお生まれになる約700年前にイザヤは「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(9:2)と語った。時を経て主のご降誕を経験した人々はまさにこの罪の中で苦しみ、闇の中を歩む人々に真の光として世に来られた主イエスが輝き上られたことを知った。このとき一人ひとりの心を照らす真の光を人々は経験した。
 主のご降誕のときの出来事を知らせる聖書の中には、多くの人々の経験において「光」が重要である。東の博士たちは星の光を頼りに救い主の下へと導かれた。羊飼いたちは荒れ野で野宿しているときに天使の軍勢の光に照らされ、「恐れるな」という呼びかけの中で大きな喜びを聞いた。
 クリスマス、それは社会的な喜びを経験するための日ではない。私たちの心に神の暖かく、やさしく、正しい光が照らされ、救い主が与えられる日である。この神の愛の光である御子のご降誕を喜びつつ、祈りのうちに一日を過ごしたい。
 

 

2012/12/26 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:8-10 賛美 聖歌 539
 神はアブラムに「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と語りかけられ、アブラムはそれにこたえて故郷を後にし、神が示された地にやってきた。しかし実際にはその地にはカナン人が住んでおり、アブラムは他国に宿るようにして約束の地に住んだ。この約束はアブラムの子、イサク、ヤコブにも受け継がれたが、彼らが実際にその地を自分たちの所有としたのはヨシュア以降であった。アブラハムが自分の生涯においては現実とならなかった神の約束を、忍耐をもって待ち望み続けることができたのは神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都―天のエルサレムを確信し、待ち望んでいたからである。
 地上のものはどんなに素晴らしいものであっても、必ず消滅する。しかし私たちは天に属するものとされている。約束の御国を望みつつ、今の時を信仰に立って歩み抜こう。
 

 

2012/12/27(木)担当 高谷満世師 サムエル記下22:8-16 賛美 聖歌 484
 ダビデの祈りは天に届き、主は彼の祈りに答えられる。ダビデが苦難の中から主に叫んだとき、主はケルビムを駆って、雨雲に乗ってこられる。主が現れるとき、被造物のすべてがその顕現に巻き込まれ、反応する。地も震え、天も震える。ここに見る神の姿はイスラエルという一民族だけの神ではなく、まさに全地の創造者であり、被造物のすべてを従える神である。
 さらにその神は「御怒り」に燃えておられる(22:9)。それは主の僕、ダビデを苦しめるものへの怒りであり、神の義の現れである。ダビデはこのように救いを求める祈りを通して確かに神が生きて働かれる方であり、ダビデのために力ある業をあらわし、すべてを従える方であると知る。
 苦しみに会うとき、私たちはその苦しみに目を向けてしまう。しかしその苦しみの中で助けを求めて叫ぶことが出来る神が居られる。そしてその方は私たちの祈りを確かに聞いてくださる。
 

 

2011/12/28(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:11-12 賛美 聖歌 254
 続いて著者は信仰の模範としてサラを取り上げる。このことについて疑問に感じる人があるかもしれない。なぜならサラは御使いが語る神のことばを聞いた時それを信じることができず、ひそかに笑ったからである。しかし御使いが彼女の不信仰を指摘し、それが神から出たことであることを知った時、彼女は自分の不信を正し、その信仰を神によって認められたのである。ここから私たちは大きな慰めを受けることができる。わたしたちは有限のものであり、全知全能の神のみ旨を理解し得ず、信じることに困難を覚えることがある。しかし御霊は私たちをすべての真理に導いてくださる。それによって信仰に立ち返る時神は受け入れてくださるのである。神のみ旨を受け入れ難く不信に苦しむ時、御霊によりすがろう。
 

 

2012/12/29(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 2:39-52 賛美 聖歌588
 ベツレヘムでお生まれになったイエス様は両親の居住地であるナザレに帰られ、そこで成長された。聖書は「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と記している。12歳になって両親と共に過越祭のためにエルサレムに上られた主は、神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。その後の成長について「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」と記されている。
 私たちはキリストの贖いの御業を信じる信仰によって神の子とされている。神の子とされた者には聖霊が与えられ、聖霊は私たちをあらゆる真理に導くと約束されている。御霊に対する従順をもって知恵に満たされ、神と人とに愛されるものとなりましょう。