2012/12/17-22

 

2012/12/17(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:8  賛美 聖歌296
 続いて著者はアブラハムについて語る。アブラハムの信仰について「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」と述べる。創世記には「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。(創 12:1-4)」と記されている。アブラハムは神の御言葉を与えられた時、自身の意志からはまったく離れて、直ちに従った。人にはそれどれ、自分の希望、計画がある。しかし信仰は神の御心が示される時、自身の思いの一切をささげて直ちに従うのである。わたしたちも信仰に生きよう。
 

 

2012/12/18 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下22:1-4 賛美 聖歌520
 ダビデの感謝の詩が記されている。これはダビデの詩と題されている詩編18編とほとんど同じ内容である。
 感謝の詩編の冒頭部分でダビデと神とのゆるぎない信頼関係を知ることが出来る。ダビデは神との個人的な関係をもっていた。さまざまな敵と戦い、イスラエルの中からもたびたび命を狙うものが現れ、常に危険にさらされてきたダビデは、神に守りをもとめ、自分自身を委ねきっている。この短い部分において4回も「救う」という言葉が用いられている。主こそがダビデの守りであり、救いであった。戦いに勝利するダビデの手柄を人々はダビデ自身の能力と勇気に帰しただろう。しかし、ダビデは神との個人的な関係に基づいて、すべての守りは神から与えられたものであるとの揺るがない確信に立っていた。
 同じ神が私たちとともにいてくださり、守り、救ってくださる。ダビデのような揺るがない信仰を持ちたい。
 

 

2012/12/19 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:8 賛美 聖歌 414
 神の召しを受けた時アブラハムは「行き先も知らずに出発した」のである。わたしたちが転勤命令を受けたなら、それがどこの地であり、その地の気候風土はどのようであり、住居はどのような物が備えられているか、待遇がどうであるかを知らなければ受け入れられないであろう。またその地に至る交通手段を知り、手配してからでないと出発できないのである。しかしアブラハムは「行き先も知らずに出発」した。それは召されたお方が神であり、このお方に完全に信頼していたからである。詩篇の作者は「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯詩 119:105)」と歌っている。
 私たちの神は全知全能にしてその独り子をお与えになったほどに私たちを愛していてくださるお方である。神のみ旨が示される時全幅の信頼をもって従おう。
 

 

2012/12/20(木)担当 高谷満世師 サムエル記下22:5-7 賛美 聖歌498
 ダビデは生死の境に立たされている。具体的な状況は記されていないが、4節までを読んできた私たちにはおそらく戦いにおいて苦境に立たされているのであろうと想像できる。切羽詰った状況の中で神に叫び求める。私たちも苦しみの中で神に叫びつつも、「本当にこの叫びは神に届いているのだろうか。こんな取るに足りないような存在である私の声を神は聞いていてくださるのだろうか」と感じることがある。そのような状況でダビデは断言する―確かに神は聞いておられる、この叫びは主の御耳に届いている。
 苦境においてこの揺るがぬ確信を持てるだろうか。ダビデのこの確信を支えたものは何だったのだろうか。それは日々の生活においての神との親しい交わりであり、主の前に真実に、忠実に生き続けてきたダビデ自身の歩みであった。
 苦しくなったら神に立ち返ればよい、というような信仰ではなく、喜びの時も、困難なときも、いつも御言葉と賛美と祈りを通して神との親しい交わりのうちに歩み続けよう。
 

 

2011/12/21(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:8-12 賛美 聖歌539
 神の命令には約束が伴っていた。著者は「自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると」と記している。しかし主に導かれてやってきた地は、約束の地であったが、実際には彼らの地ではなく、従って彼らは「他国に宿るようにして約束の地に」住んだのである。しかし神のことばに全く信頼している彼らにとってはその地は信仰によって彼らのものであった。「そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。(使 7:5)」と記されている。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである。
 

 

2012/12/15(土)高谷由紀子師 マタイによる福音書 1:18−24 賛美 聖歌118
 イエスの誕生の次第が記されている個所である。主がこの世に来てくださったのは突然に起こったことではない。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と記されているように、イザヤはイエスの誕生のおよそ700年も前に「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ(イザ 7:14)」と預言している。罪を犯して永遠の滅びに定められた人類のために神は救いの御業を計画し、独り子イエスによって成就してくださった。神の測り知れない深い愛を心に想いつつクリスマスを迎えましょう。