2012/12/31-2013/1/5

 

2012/12/31(月) 担当高谷清師 テサロニケの信徒への手紙 5:16-18 賛美 聖歌294
 2012年も最後の日を迎えました。この年、一人ひとりにとって多くの出来事があったことと存じます。良いこと、悪いこと、嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと・・・・・色々な出来事に遭遇した一年間であったと思います。しかし私たちは感謝することのなんと少ないものであろうか。三浦綾子氏はエッセイ集〈明日のあなたへ〉において「九つまで満ち足りていて、十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、人間はまずその不満を真っ先に口から出し、文句をいいつづけるものなのだ。自分を顧みてつくづくそう思う。なぜわたしたちは不満を後まわしにし、感謝すべきことを先に言わないのだろう。」と語っておられるが、同感である。
ここに取り上げた聖句はパウロが激しい迫害のもとにあって苦難を強いられていたテサロニケの聖徒たちに書き送った手紙の一節です。パウロは苦難のなかにある人々に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と勧めているのです。そしてそれは「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」だからだ、と言うのです。この一年間に神が与えてくださった恵みを一つ一つ数え、神に感謝し信仰を新たにして新しい年への備えとしよう。
 

 

2013/1/1 (火)担当 高谷満世師 イザヤ9:2 賛美聖歌89
 主の恵みのうちに新しい年を迎えた。「新しさ」は私達の気持ちをも新たにする。改めて背筋が正される思いがする。もちろんそこには、これから起こるであろう素晴らしいことへの期待があり、同時に先が見通せない不安もある。
 イザヤは「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」と語った。これを聞いた民は、罪のためにエルサレム神殿の破壊を経験し、捕囚として異郷に住む、苦しむ人々であった。そのような希望を持ち難い状況にもかかわらず、神はイザヤを通してこのように宣言された。イスラエルにとって、主が海の中に道を通し、強大な軍隊を壊滅させられたあの葦の海での出来事はまさに輝かしい歴史であり、神の偉大な力の表れであった。しかし、そのことをすらここでは「思いめぐらすな」と言われる。なぜなら、その同じ神がさらに素晴らしい、新しいことを成し遂げられる、かつてのように荒野に道を通し、今度は捕囚の地からエルサレムへ帰る道を開かれると言われるからである。
 私達は過去の経験則から未来を推し量る。神の偉大な力で成し遂げられる大いなる出来事を過小評価してしまい、未来を小さな私達の能力の範囲で考え得ることに限定してしまうかもしれない。自分の経験に基づいた推測の範囲のことではなく、さらに偉大な御業を成し遂げられる主に望みをおいて一年の歩みを始めよう。
 

 

2013/1/2 (水) 担当 高谷清師 マルコによる福音書 6:30-44 賛美 聖歌526
 2013年、主はこの年私たちに何を求められておられるのでしょうか。この箇所では人里離れた場所で長時間主の教えに耳を傾けていた群衆を心配した弟子たちが主に「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」と言ったのに対し主が「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになったことが記されています。ここでの群衆は主から霊の糧を頂いていますが、弟子たちは群衆の肉の糧について心配しているのです。今日の日本の状況を見ますと肉の糧は一応満たされていますが(格差拡大等によって十分とは言えませんが)霊的な状況は「飼い主のいない羊のような有様」です。これに対して主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われるのです。プロテスタント宣教150年余、これまでは日本の宣教は外国の宣教団体、宣教師の手によって進められてきました。その方々は素晴らしい働きをしてくださいました。深く感謝しなければなりません。しかし文化の違いは厳然と存在し、日本人の心の琴線に触れるには今一歩と言うところでしょうか。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」との御言葉は、この国の宣教は私たちが担うべきことを求めているのです。この年、先に主の恵みに与かった私たちは心を込めて御言葉を伝えましょう。
 

 

2013/1/3(木)担当 高谷満世師 サムエル記下22:17-20 賛美 聖歌501
 ダビデは全地の反応を伴った神の現われに続いて、この神がダビデ自身を救ってくださったと述べる。かつてモーセを水の中から引き上げ、救われた神が、今ダビデを大水の中から引き上げて救ってくださる。いかに強大な敵がいても、神が救ってくださる。そしてこのときだけではなく、敵が攻め寄せる日には必ず主が支えとなり、導いてくださる。
 このように詩を読み進めていくと、ダビデが弱く小さい存在であると思える。しかし、実際にはダビデはイスラエル王国の王であり、人間的には決して非力な存在ではなかった。自分の地位や武力を用いてさまざまなことを計り、危機を回避することも出来たであろう。実際にダビデは王として国を治めていた人物である。それにもかかわらず、ダビデはここで、「救ってくださるのは神である」と断言する。
 ここにダビデの生涯が神の歩みと確かに重なっているというダビデ自身の信仰を見る。私たちもあらゆる瞬間に、自分と神の歩みが別のものではなく、重なり合う一つの歩みとしてみる信仰の視点を持ちたい。
 

 

2013/1/4(金) 担当高谷清師 マルコによる福音書 6:30-44 賛美 聖歌581
 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われて当惑し、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」とつぶやいている弟子たちに主は「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」と言われました。弟子たちは確かめて主に報告しました。主はそれを手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配されました。すると「すべての人が食べて満腹し、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」のでした。記者は「パンを食べた人は男が五千人であった」と報告しています。
 「御言葉を伝えなさい」と言われて、人材がない、金がない、雄弁ではない、能力がない・・・・・等とつぶやく私たちに主は「あなたには何があるか」と言われます。そして私にあるものを主にさし出す時、主はそれを祝福して用いてくださるのです。そしてそれはすべての人を満たすのです。私たちに求められるのは自分を主に献げることです。パウロは「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です(ロマ 12:1)」と言っている。
 

 

2013/1/5(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 2:39-52 賛美 聖歌588
 エノクの生涯について、どんな生活をしたか、どのような働きをしたか、と言うことについては、聖書は何も語っていません「エノクは神と共に歩み」と記しているだけです。そして他の人については「そして死んだ」と記されているのに対し、エノクだけは「神が取られたのでいなくなった」と記しているのです。これについてヘブル書は「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです(ヘブ 11:5)」と記しています。クリスチャン生活において大切なことはどんな働きをするか、どんな功績を残すかではなく、常に神と共に歩むことです。嵐のなかを通るようなことがあっても、どんな苦境に遭遇しょうとも、十字架の贖いの恵みにささえられて神と共に歩むなら、死を見ること無く御国に入れられるのです。