2019/7/29-8/3
- 2019.07.29
- ディボーションの友
2019/7/29(月) 担当 高谷清師 ヨハ 14:12-14 賛美 新聖歌 438
イエスは「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」と語られる。更に16章において「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」(ヨハ 16:7-11)と語っておられる。イエスが父のもとに帰られ、聖霊が遣わされた後、聖霊に満たされた信徒たち―教会―によって福音は力強く述べ伝えられ、終わりの日に向って全世界に向って宣べ伝えられつつある。聖霊に満たされ、終わりの日まで主に仕えよう。
2019/7/30(火) 担当 ラウジー満世師 ホセア書11:5-7 賛美 新聖歌338
神は、まだイスラエルが幼かった頃から彼らを愛し続けてきた。しかしイスラエルの方は一向に神の愛にふさわしく応えようとはしない。この頑なな民に対する神の最終的な決断は、彼らへの罰として滅ぼすことであった。出エジプトの時代から神の愛を当然のように受け続けてきたイスラエルは、それが当たり前のようになってしまい、神の愛の中に生かされているという深い恵みを悟ることができなかった。その結果、エジプトを頼みとした。しかし、本来イスラエルを生かし、恵みを与え続けた神を忘れては、彼らは生きることができないのである。
しばしば人は恵みの真の源である神を忘れ去る。意図的ではないにしてもいつの間にかその恵みを神以外のものに帰し、神を頼ることに飽いて他の魅力的で有力に見えるものに頼る。今の私たちにも起こり得る誘惑である。目を覚ましてしっかりと神の導きに従おう。
2019/7/31(水) 担当 高谷清師 ヨハ 14:12-14 賛美 新聖歌 282
イエスは「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」と語った後、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる」と語られる。この箇所についてジークフリート・シュルツは「遺わされた者は、神に背いた混乱のこの世を歓呼しつつ去って栄光の国に帰ったのち、弟子たちのすべての願いを聞き、彼らに天の住居を備え、ついには彼らを父と子と天において一つになしおおせることによって初めて、本当に救済者としての神的な仕事をすることになるからである。」(NTD新約聖書註解4 ヨハネによる福音書 NTD新約聖書註解刊行会1975P355−356)と述べている。イエスが父から与えられたすべての御業を成し遂げ、天に帰り、ご自身の座に着かれた時、救いの御業は完成し、父は子によって栄光をお受けになった。それによって、イエスを信じる者がイエスの名によって願うことは何でもかなえられるのである。14節で再び「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」と言われているのはその約束が確かであることをあらわしている。堅く信仰に立って歩もう。
2019/8/1(木) 担当 ラウジー満世師 ホセア書11:7-9 賛美 新聖歌233
一般的に、人間関係について考えながら11:1-7を読むと、神とイスラエルとの関係はここで『終了』する。ここまで相手を裏切り続けたイスラエルが赦されて関係が回復されることや、裏切った相手から愛され続けることなど普通はありえない。しかし考えられないことが起こる。神はこれほどご自分を裏切るイスラエルをも見捨てず、彼らを滅びに引き渡さないのである。人間の愛には限界があるが、神の愛は無限である。私たちの理屈によっては理解できないこの決定的な転換は「私は神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。」と宣言される神ご自身の本質に起因する。
人間の限られた理解力で神を完全に知ることはできない。それゆえに聖書では人間に例えて「父」のように神について語る。しかし、神は私たちとは異なる、聖なるお方である。聖なる神が私たちの理解を超える深い大きな愛によって愛してくださるからこそ、神と私たちとの関係は保たれている。神の深い愛を思い起こし、今日の一日を歩もう。
2019/8/2(金) 担当 高谷清師 詩 45:18 賛美 新聖歌 434
詩人は「わたしはあなたの名を代々に語り伝えよう。諸国の民は世々限りなく/あなたに感謝をささげるであろう。」と詠う。パウロは「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ロマ 6: 5)と述べている。この箇所についてルターは「わたしたちが神のみ子を歌と文書と説教によってほめたたえることは、新約聖書の唯一の最も値高い礼拝である。この礼拝はさんびのささげものであると同時に、死のささげものでもある。なぜなら、わたしたちがキリストを宣ベ伝え、告白するこの礼拝のために、わたしたちは苦しみを受けて殺されねばならないからである。このことは、この世が続くかぎり、またこの王(キリスト〉が来臨してわたしたちの目の前に現われるまで、絶え間なく行なわれるべきものであり、また行なわれている。その間にわたしたちはみことばと説教職とによって、聖書とサグラメントの慰めによってのみ、キリストの惨めな貧しい君主たちを支配する。これが主の名をおぼえることである。」(マルティン・ルター『詩篇講解抄』新教出版社1961P206)と述べている。真実の福音を宣べ伝えることは宗教が権力からフリーの状態の時であっても十字架の道である。肉の思いに従う者は、神に敵対するからである。イエスは語られる「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ 10: 22)と。約束の御国の栄光を望みつつ最後まで真実の福音を証ししょう。
2019/8/3(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 5:1-6 賛美 新聖歌 395
主は群集に話し終わった時、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。漁師たちは夜を徹して漁をしましたが何も獲れず、疲労困憊し諦めていました。シモンたちは漁の専門家であり、漁については知り尽くしていました。心の中ではイエス様と言えどもこの道については自分たちの方が上だと思っていたかもしれません。しかしシモンは「「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、そのとおりにするとおびただしい魚がかかりました。人間の限られた知恵や経験に頼らず、主の言葉に信頼して従うことが大切です。
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