2015/1/12-17

2015/1/12 (月) 担当 高谷清師 ?コリ13:4-7  賛美 新聖歌 427
 愛は「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」のである。主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない(ヨハ 14:6)」と語られた。そしてパウロは「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである(?テモ 2: 13)」と述べている。更に「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます(ロマ 1:18)」と述べている。愛であられる神は真実なお方であり、不義を喜ばれず、裁かれるお方である。神の愛の内にある私たちは救い主と共に、不義を喜ばず、真実を喜びとして歩もう。

2015/1/13(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下18:1-34  賛美 新聖歌258  
 ヨシャファトもまた富と栄光を手にしたときに、残念ながら信仰が揺らぎ、北王国と同盟を結んだ。神に全幅の信頼を置くことに失敗した。北王国のアハブはヨシャファトに同盟を結んで戦いに出ていくことを求めた。ヨシャファトは神のことばを求めてはいるが(18:4)、それは既に彼が戦いに出ていくことを快諾した後であり、意味をなさない。自分中心に事を進めたヨシャファトは戦いにおいて命の危機にさらされる。アハブのように変装して出かけた時、彼は敵に囲まれ、命を奪われそうになった。その時ようやく彼は主に助けを求めて叫んだ。すると主は彼を助けられた。一旦は神への忠実を忘れたヨシャファトの叫びをも主は憐れみをもって聞いてくださり、助けてくださった(17:31)。
 どれほど忠実なものであっても、生涯完全に神に従い尽くすことがどれほど難しいことか教えられる。しかし一度道をそれた者でも、間違いに気付いて立ち帰る者を助けてくださる。一度の失敗であきらめるのではなく、主に立ち返りたい。

2015/1/14(水) 担当 高谷清師  ?コリ13:4-7  賛美 新聖歌 209
 愛は「すべてを忍ぶ」。「忍ぶ」という言葉はもともと「覆う」と言う意味であり、「覆い隠す、カバーで防ぐ」更に『忍耐する』と言う意味になったと言われる。愛は他人の悪を暴露して公衆の批判にさらすようなことをせず、それを覆い、守るのである。パウロはこの「忍ぶ」という言葉に「すべてを」という言葉を加えている。これについてカルヴァンは「かれがすべてと言うのは、耐えられるすべてのもの・そうするに価するすべてのもののことであると解すべきである。なぜなら、わたしたちは、悪徳までも酎えることがあってはならないからである。人の意をむかえるために悪をゆるしてしまったり、見て見ぬふりをして、無頓着のために悪を育てることになったりしないように心しなければならない。それに、このように忍耐するからといって、こらしめや正当な刑罰までもしりぞけてしまうわけではない。(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P305新教出版社)」と述べている。自分に利をもたらす人の意を得るために不正を覆い隠せとは言っていないことに注意しなければならない。それはアガペーではなく、自己愛である。アガペーの道を歩もう。

2015/1/15(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌下18:1-34  賛美 新聖歌201  
 ヨシャファトとアハブが共に戦いに出ていくとき、多くの預言者が主の言葉を語っている。ある者は勝利を約束し、ある者は鉄の角を用いて勝利を約束し、ミカヤは、勝利は得るがイスラエル人が羊のように散らされ、導くものとしての王を失うと語る。結末を知って読む私たちはミカヤが正しいと判断できるが、渦中において主の名によって語る異なる預言を聞く時にどれが真実であるか、判断するのは容易ではない。1ヨハネ4:1においても「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。」と記され、神からの言葉であると装いながら、信徒を惑わそうとする霊が存在することを警告している。
 霊的な判断は神のことばを土台としてなされなければならない。霊的な判断はその預言が実現するかどうかによるのである(申18:21-22)。人間の知恵を越える神の霊の導きの中で、賢く的確に見極める目を持とう。

2015/1/16(金) 担当 高谷清師 マタ 5:13  賛美 新聖歌 216
 また愛は「すべてを信じる」。この箇所について小畑進は、各徳目ごとに内村鑑三に聞くことにしたいと思います(コリント人への手紙第一提唱P565いのちのことば社)と言って『「この愛の特性は、あとにつづく二つと共に、クライマックスを成す。愛はしるしなくも最上を信ずるのみか、たとい反証いづるも、なお最上を期待し、その期待ことごとく失望に終るとも、なお勇敢に耐え忍ぶ。」「愛は詩人なり。彼女は解説を経ずして本能的に真理を了得す。信仰は愛の表彰なり。知識の先駆なり。まず愛をもって信じ、しかるのちに知をもって窮むるなり。これ宗教においてのみしかるにあらず。科学においてもまたしかり。天然を愛し、彼女を信ぜざるものに彼女はその秘密を授けず、信は先にして知は後なり。信の示すところは知をたどるなり。信は知の結論にあらず。」(コリント人への手紙第一提唱P571いのちのことば社)』と述べている。主イエスもトマスに対して『イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハ 20:29)』と教ておられる。愛はすべてを信じる。

2015/1/17(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハネ16:33 新聖歌316
 イエスは十字架にかかり世を去る時が近づいたことを思い、世に残される弟子たちが不安や艱難や迫害に会うことを知って彼らに励ましとなる勝利の約束をされました。世界中のだれもが悩みを持っています。お金持ちや王さまであっても一人として例外はありません。苦しみ、悩み、つらいことや嫌なことが一度もなかったという人はいません。主は「あなたがたには世で苦難がある。」と言われました。これらの苦難に耐えられず、人に助けを求めたり自暴自棄になって投げやりな生活をしたり苦難から逃れるために快楽や飲食によって一時的な気休めを求めたりします。しかしこれらのことによっては決して解決も前進もしません。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と主は言われました。私たちの信じている主は世に勝利し、この世の支配者であるサタンに打ち勝たれた主です。信仰を持って主の約束してくださった勝利の道を歩みましょう。”,,1030″