2012/12/10-15

 

2012/12/10(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:4-7  賛美 聖歌612
 ノアの生きた時代は「神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた(創 6:12)」と言われているように、神の前に堕落し、不法に満ちていた。それ故、神はこれを滅ぼそうと決心された。しかし神はそのような中にあっても「神に従う無垢な人(創 6:9)」を見出された。神は彼にご自身が行おうとされる裁き(洪水)とその裁きによる滅亡からの救いの道(箱舟)を示された。この神のお告げを受けたノアは「恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造」ったのである。箱舟の建造は海岸ではなく内陸であった。洪水は人類の未体験の事柄であった。箱舟の建造は百年を超える大事業であったが、洪水の始まりの時期は明確にされてはいなかった。多くの人々の嘲笑と妨害に遭遇しなければならなかった。そのような中にあってもノアは「恐れかしこみながら」御言葉に従ったのである。ノアにそのように行わせたのは信仰である。
 今日の私たちにも主の再臨が約束されている。それに対しては、ペトロの時代から始まって今日まで多くの嘲笑と批判と妨害が寄せられている。しかし私たちは堅く信仰に立つことが必要である。
 

 

2012/12/11 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下21:1-14 賛美 聖歌508
 かつてサウルがギブオン人を殺害して血を流した責任が問われている。ギブオン人は飢饉がおさまるためにサウルの家から7人の血を求めている。サウルの氏族の連帯責任を問うている。そして7人が差し出されたことによって主がこの国の祈りに答えてくださり、問題は解決された。私たちはことの次第に驚きと嫌悪を感じる。ダビデにとってもサウルの子孫7人を差し出すことは決して本意でも喜ばしいことでもなかっただろう。それでも状況の中で、そうしなければならなかった。広い視点から見るならば、結局のところはこの出来事を通して、ダビデ家の王座を脅かしうるサウルの子らが除かれ、またギブオン人との対立の種も除かれた。
 時として信仰において受け入れがたいが、それでも止められないような事態が起こることがある。どうしてこのような事態を神は許しておられるのかと疑問を持つこともある。しかし私たちの理解を超える状況を通して、神が道を開かれることもある。神のご計画のすべてを知り尽くすことはできないが、与えられた情況において常に主の導きを信じていきたい。
 

 

2012/12/12 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:4-7 賛美 聖歌444
 ノアは神様から罪と裁きについての神の御計画を啓示された時、そのような兆候は何一つみることはできなかったが、それを信じた。そして箱船の建造に着手し、人々に裁きと救いの道について語った。「また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです(?ペテ2:5)」と語られているとおりである。しかし誰一人ノアのことばに耳を傾けず、信じなかった。そして神のことばは現実となり、不信仰な人々は滅んだ。ノアは「その信仰によって世界を罪に定め」たのである。主イエスは「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない(ヨハ 15:22)」と語っておられる。またパウロは「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか(?コリ2:15-16)」と述べている。
 

 

2012/12/13(木)担当 高谷満世師 サムエル記下21:15-22 賛美 聖歌511
 ペリシテとの戦いに関する出来事が四つ記されている。ペリシテはダビデの少年時代からのイスラエルの敵であり、ダビデ自身も戦い続けてきた相手であった。ダビデは疲れており、アビシャイの助けを借りてようやく敵を倒せるという状態であった。ダビデが高齢になっていたのであろう(21:17)。
 ダビデは年を重ねて、若いときに出来たことが出来なくなりつつあった。しかし、神は高齢ゆえにダビデを捨てられることはなかった。ダビデが年老いてからも、神はダビデを選ばれたその選びに忠実であられた。そしてダビデの周囲にいる兵士たちを用いて、勝利を与えられ、主の恵みがそこにあることを示された。
 主は選ばれた人々を、その能力が衰えたからといって理由なく見捨てるようなお方ではない。選ばれた者が忠実に神に仕え、従うときに、神もまたご自身の真実を示される。
 

 

2011/12/14(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:4-7  賛美 聖歌243
 更に著者はノアについて「信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」と述べている。創世記においては「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ(創 6:9)」と記されている。そして神はこのノアに語られるのである。それは神がノアを義と認められておられたことを意味する。それはノアの神に対する信仰によるのであった。人間の生活は、たとえどんなに聖いものであっても、もし神の基準で吟味されることになったら,罪の赦し無くしては義ではありえない。パウロは「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです(ロマ 9:30-32)」と語っている。わたしたちが義と認められるのは信仰による以外にはないのである。
 

 

2012/12/15(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 1:26−38 賛美 聖歌118
 神様から遣わされた天使ガブリエルが、ナザレというガリラヤの町に住む、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめマリアのところに来て「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げました。マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んでいました。すると天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と告げました。驚いたマリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言うと天使は、それは聖霊によることを伝え、マリアは信仰によって「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答え、天使のことばを受け入れ、神のみ業は成就したのです。婚約中のおとめがみごもることは死をも覚悟しなければならない出来事でした。しかし彼女はそれが聖霊によることであり、神の御心であることを知って信仰によって受け入れたのです。わたしたちも常に信仰によって神に仕える者になりましょう。