2012/11/26-12/1

 

2012/11/26(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:1-3  賛美 聖歌539
 「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」と述べた著者は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と語る。神は聖書によって多くの約束を与えておられる。旧約の聖徒たちの生きた時代にはこれらの約束は成就されてはいなかった。しかし彼らは神に対する信仰によって神の約束を確信し、それによってその成就を確認したのである。信仰は迫害と困難の時代を生きる彼らの内に希望をもたらした。パウロは「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです(ロマ 8:24-25)」と述べている。
 主の贖いの約束が成就し、恵みの時代に生かされている私たちに、もなお成就を待たなければならない約束が残されている。それは、私たちが堅く信仰に立つ時、私たちの希望である。それ故、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励もう。
 

 

2012/11/27 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下18:19-19:9 賛美 聖歌582
 戦いにおいて反乱者、アブサロムが死んだ。ダビデ王はその報告を受けた。ダビデにとってアブサロムは愛する息子であった。ダビデは父親としてこの愛する息子の死を悼んだ。感情としては当然であろう。しかしアブサロムは、理由はどうあれ、反乱を起こして父を殺そうとした。その行為は赦されるものではなかった。当然、王としてダビデはこれを赦すべきではなかった。またアブサロムの罪に対する罰として死は応分である。ダビデはアブサロムの父であると同時に神から選ばれてイスラエルを神の導きに従って治める王であった。それゆえ、反乱を起こして罪を犯したアブサロムを決して情に流されて赦してはならなかった。それにもかかわらず、知らせを受けたときのダビデは何が義であるかを考慮せず、ただ息子の死を嘆いた。
 愛情を注いでいる者が罪を犯したとき、その情のゆえにその罪を正しく裁くことが出来ない、あるいは難しいことは誰もが経験するだろう。しかし、神の目に正しいことは人間の情によって変えられるものではない。
 

 

2012/11/28 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:1-3 賛美 聖歌450
 著者は「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と語る。そして4節から38節で神に認められた信仰の偉人達について語っている。その中で「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません(ヘブ 11:6a)」と語っている。またパウロは『わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです(ロマ 1:16-17)』と語っている。さらにハバククは「神に従う人は信仰によって生きる(ハバ 2:4b)」と語っている。旧約、新約を通して、信仰は私たちに救いをもたらし、私たちを生かし、神に喜ばれるものとするのであって、信仰無くしては人は生きることができないのである。しっかりと御言葉に立ち、信仰によって歩もう。
 

 

2012/11/29(木)担当 高谷満世師 サムエル記下18:19-19:9 賛美 聖歌582
 ダビデにとって、反逆者とは言え愛する息子アブサロムの死は大きな悲しみであった。ダビデはその報告を受けたときに王としての責任や立場も省みず、アブサロムを呼びながら嘆き悲しんだ(19:1)。それは、命をかけて国を守るために戦い、罪に対する裁きとしてアブサロムの命を奪った兵たちを放ったらかして、さらには彼らの行いを非難するようにも受け止められるほどであった。王がこのように嘆き続けるならば、どれほど王を信頼し、尊敬している兵でさえも王から心が離れてしまうような嘆きであった。父としての悲しみのあまり、王としての責任を忘れるほどの状態であった。
 この王国の危機に際して、神は憐れみ深くもヨアブを用いてくださった。ヨアブの王への言葉、叱責はまさに民の不満を代弁するものであった。そしてヨアブの言葉をとおしてダビデは大きな間違いから守られたのである。
 神に忠実な僕であっても、いつも完璧ではいられない。失敗や間違いや罪を犯しそうになる。そのようなときにも憐れみ深い神は人を送り、助けを与えて僕を正しい道に導いてくださる。私たちも常に主の声に耳を傾けつつ正しい道を進ませていただこう。
 

 

2011/11/30(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 11:1-3  賛美 聖歌195
 天地宇宙、生命の起源と生成は人類の大きな関心事であり、興味の的である。多くの推論がなされてきたが、すべてが仮説の域を出ない。天地宇宙、生命の起源を目に見えるものに限って解明しょうとするならそれは不可能である。聖書は冒頭において「初めに、神は天地を創造された(創 1:1)」と述べる。神の特別な、創造的な行為を受容することは、信仰によってのみ可能となる。信仰の眼を開く時、目に見える世界は、目に見えるものから作り出されたのでなく,神の力によって存在に呼び出されたことを知るのである。信仰目を開く時、神が私たちに備えていてくださる恵と祝福の素晴らしさを知ることができるのである。
 

 

2012/11/24(土)高谷由紀子師 ルカによる福音書 15:8−10 賛美 聖歌422
 一枚の銀貨をなくした女はそれを見つけるまで念を入れて家中を探した。それは一日の労働の対価として得る額であり、彼女にとって非常に貴重なものであった。見つけ出した時の喜びは非常に大きく、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言って喜びを分かち合わずには居られないほどであった。これと同じように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがあると主は言われた。一人の人が救われることは地上においてはもちろん、天においても大きな喜びである。