2016/4/4-9

2016/4/4 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3:10-12 賛美 新聖歌 297
 ぺトロは「主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。」と述べる。ダビデは「主の使いはその周りに陣を敷き/主を畏れる人を守り助けてくださった。味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。若獅子は獲物がなくて飢えても/主に求める人には良いものの欠けることがない。」(詩34:8-11)と詠い、更に「主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。」(詩34:18-21)と述べている。この箇所についてウェイン・A・グルーデム師は「単に神が義人がしていることを見ておられるということだけでなく(それはすべての人々が経験している以上の大きな特権ではないだろう)、神は善を施すために、すなわち彼らの必要を認め、それを満たそうとして、彼らの世話をしておられることを意味している」(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P167いのちのことば社))と述べておられる。正しく生きようとすると、多くの反対と迫害と困難を覚悟しなければならない。しかし主は正しく生きる人を守り、助け、彼らの祈りを聞かれる。

2016/4/5(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書33:1-12 賛美 新聖歌166
 ここには神のことばと民の声とが入り混じっている。イザヤは何度も神から民への悔い改めと神への信頼の呼びかけを語ってきた。ここにはそれに応えるように、民が主の救いを待ち望むという言葉が記される。そしてそれを聞く主は「シオンに正義と恵みの業を満たされる」(33:5)方であると宣言される。シオンは主が選ばれた場所である。このシオンを破壊し、略奪しようと国々が襲い掛かってくる。しかし正義の主はご自分が選ばれたこの都を守られる。
 「主に信頼する」とは、主が憐れみを示してくださるということを信じ、力ある主が守ってくださるということを信じてより頼むことである。私たちにとっても信頼できるお方は神である。神により頼み、助けを求めよう。

2016/4/6(水) 担当 高谷清師  ?ペテ3:10-12  賛美 新聖歌 390
 続いてペトロは「主の顔は悪事を働く者に対して向けられる」と語る。詩篇34編は「主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から絶たれる。」(詩 34:17)と述べている。悪事を働くものに対して主の裁き、滅びが宣言されているのである。「世」には自分の益のために巧みな言葉使いによって不義を正義に見せかけようとする者がある。そのようなものは「世」だけではなく、キリスト教界にもあふれている。彼らは「法(普段は軽んじる世の)的に正しい」と胸を張る。そして文脈から切り離した聖書の一句を持ち出し「聖書にもとづいている」と主張する。聖書を文字単位に切り取れば何を言っても聖書にもとづくことになる。聖書の真意を無視し、捻じ曲げ、如何に自己正当化しょうとも、裁きを行われるのは主である。私たちは常に御前に真実に歩もう。

2016/4/7(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書33:13-20 賛美 新聖歌361
 人々に対して神の業を見るよう呼びかける。人々は二つのグループに分けられる。前者は罪びとであり、神を無視する人々である。自分勝手な道を歩み、神を力の無いものとして侮ってきた人々は正義の神が立ち上がられたときにその神の正しさの中に立ちえない。しかしいかなる状況であれ、正義に歩み続けてきた人は守られ、高いところに住まわされ、豊かに水を与えられる。まさにこのことをなさるのは王である神ご自身である。神によってたてられた人間の王が神に信頼することができず、裁きを受けていく中で、最終的に神が王として正義を行われる。その時にこそエルサレムは守られ、主に信頼を置く人々は力ある王である神を見るのである。
 眼前の状況はどうであれ、信頼すべき方、力と正義をもって治める方はただ神のみである。

2016/4/8(金) 担当 高谷清師  詩編18:1-7  賛美 新聖歌 284
表題に「主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。」と記されている。主はエッサイの末の息子で羊飼いであったダビデを召し、サムエルによって油を注ぎ、イスラエルの王とされた。しかしダビデは、そのことを受け入れないサウルによる理不尽な迫害を受け、命を狙われ、苦難の道を歩まなければならなかった。サウルの亡きあとユダの王となり、全イスラエルの王となった後も、対外的にも対内的にも戦いの生涯を強いられたのである。しばしば死の危機に直面し、神に祈り、神によって危機から救い出された生涯であった。真に、ダビデにとって神は「主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。 ほむべき方、」であった。ダビデが神に向かって叫ぶと、「その声は神殿に響き、叫びは御前に至り、御耳に届く」のであった。今日に生きる、信じるわたしたちにとっても、神は同じ存在であられる。主は「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタ7: 7)と約束していて下さる。主に依り頼み、祈り、御手の内を歩もう。

2016/4/9(土)担当 高谷由紀子師 ルカ12-13-15 賛美 新聖歌315
 金銭は人間が社会生活をしていく上で必要なものの一つです。それゆえ、金銭至上主義の生き方をする人がいます。エコノミック・アニマルと呼ばれることもあるように、これはお金さえあればどんなことでも出来る、お金の力が第一だと考え、ただ経済的な利益のみを求めて行動する生き方です。しかし人間はお金だけで生きていける者ではありません。聖書は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(15節)と記しています。富を積むことが必ずしも悪ではありませんが、富が増すに従って人間の心は神から離れやすいのです。すなわち富に心を奪われて神の国と神の義を忘れ、貧しい者を思いやる心を失い、富を頼りとして神に頼らず、平安を富に求めて神にある平安を忘れるのです。キリスト者はイエス・キリストの尊い贖いによって永遠の命が与えられています。このことを覚えて、信仰に立って日々を歩みましょう。”,,980″