2016/4/11-16

2016/4/11 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ3:13-14 賛美 新聖歌 355
 13節から17節においてぺトロは、当時吹き荒れていた迫害の嵐に対処する態度について述べる。13節には「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」と記している。これは何人も認める人類普遍の原則である。しかし、世ではこの原則が通用しないのが現実である。「水清くして大魚住まず」とか、「魚心あれば水心」と言う諺があるとおりである。ぺトロとヨハネが良い業を行ったため裁判の席に立たされたとき、ぺトロが聖霊に満たされて「民の議員、また長老の方々、 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。」語った時、議員や他の者たちは、「足をいやしていただいた人(ぺトロとヨハネの行った善)がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。」のである。私たちは、環境がどうであれ、善いことに熱心な者となろう。

2016/4/12(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書34:1-17 賛美 新聖歌302
 ここでは神が世界に対して裁きを語られ、その対象は節が進むにつれてエドムに焦点を当てる。主の報復の日(8節)の状況が神の裁きとして書かれているが、ここには剣と血、硫黄と燃え上がる火など、大変おどろおどろしいイメージで満ちている。誰しも避けたいと思うほどの恐ろしい裁きの光景である。具体的にはエドムの名があげられているが、これはシオンにかかわる争いを正す(8節)ための神の裁きである。つまり神に逆らい、罪を犯す者に対する神の最終的な裁きである。そして裁きの後にその土地に住むのは野の獣や不気味な生き物である。
 神の主権の偉大さを考えずにはいられない。神に逆らう者が永遠に栄えるように見えることもある現実の中で、神は何をしておられるのかと感じることもあるかも知れない。しかし神は正しい行いを知り、最終的には公平な裁きをなさる方である。

2016/4/13(水) 担当 高谷清師  ?ペテ3:10-12  賛美 新聖歌 322
 ぺトロは「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。」と述べる。このように述べたペトロの心には、主イエスから親しく教えを受けた時に語られた「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタ 5:10)と言う御声が響いていたであろう。続いて「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。」と語る。人は弱い存在である。自分が確信を持っていることでも、孤立させられ、否定的な言葉を聞かされ続けると確信が揺らぎ、否定的な言葉の方が正しいのではないかと考え始めるそうである。2014年3月に誘拐された少女は、監禁され、周囲との接触を断たれ、「お前は捨てられた、お前など、誰も探していない。」と聞かされ続けたと言う。最初はそんなことはないと思っていたが、何回も同じ言葉を聞かされ続けるうちに、もしかすると、と考えるようになったと言う。犯人が外出したすきにネットを閲覧し、両親をはじめ多くの関係者が自分を探していることを知り、逃げ出す決心をしたと報じられている。異教世界に住むキリスト者も、否定的な言葉にさらされ続ける中で、「人々を恐れたり、心を乱されたり」することが起こりうる。そうならないためにも聖徒の交わり、教会の交わりを欠かしてはならない。

2016/4/7(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書35:1-10 賛美 新聖歌254
 34章と対になっているこの35章は、神の恐ろしい裁きについて語る34章とは対照的である。暗く恐ろしい裁きから一転して、神を信じる人々には癒しと希望が与えられる。不毛の荒れ地が喜びの満ちるところとなり、砂漠が植物を生じさせるところとなる。弱った人々に強くあれと命じ、おののく人々に雄々しくあれと命じられる時、そこには神が共にいてくださるという保証が与えられている。神が回復の業を始められる時に癒しと再出発がある。人々は聖なる都に向かって敷かれた道を、神を先頭にして進む。かつてエジプトから約束の地に向かったように。
 神を信じて正しく歩む者に与えられているのは希望と回復の約束である。目に見える現実がどうであろうと、この希望の約束を目指して進もう。

2016/4/15(金) 担当 高谷清師  詩編18:8-16  賛美 心の中デメロデイを?4
 義なる神の僕が神に向かって叫ぶとき、神の怒りは不義なる者に向かって燃え上がり、神は求める者のもとに、速やかに、大能をもって駆けつけてくださる。その様子を詩人は「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。御怒りに煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。主は天を傾けて降り、密雲を足もとに従え、ケルブを駆って飛び、風の翼に乗って行かれる。周りに闇を置いて隠れがとし、暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。御前にひらめく光に雲は従い雹と火の雨が続く。主は天から雷鳴をとどろかせ、いと高き神は御声をあげられ、雹と火の雨が続く。主の矢は飛び交い、稲妻は散乱する。主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し、あなたの怒りの息に世界はその基を示す。」と表現する。この箇所についてG.A.F.ナイトは「この力づよい詩は一気珂成に読まれなければならない。一節一節分析すべきではなく、あるいはさまざまな描写がなにを言おうとしているのか、などと問うてはならない。それは最も高い秩序に属する詩である。」(G.A.F.ナイトTHE DAILY STUDY BIBL 詩篇?P173新教出版社1990)と述べておられる。私たちもここに描かれた出来事の一つ一つを詮索することはやめよう。義であられ、偉大であられ、求める者に速やかに、力強く応えてくださる神を賛美しょう。

2016/4/9(土)担当 高谷由紀子師 ルカ12-13-15 賛美 新聖歌315
 イエスがガリラヤ湖の向こう岸に渡られたとき、イエスが病人たちになさったしるしを見ていた大勢の群集が後を追ってきた。それを見てイエスはフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた。フィリポが当惑しているとアンデレが「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と言った。イエスがそのパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々にほしいだけ分け与えられ、魚も同じようにされると人々は満腹した。人々の数はおよそ五千人であったと記されている。私たちは大きなものを持っていないかもしれない。しかし今持っているものを主の手に委ねるとき、主はそれを祝福し、大きなものと変え、用いてくださる。今持っているものを主の手に委ねる信仰を持とう。”,,1046″