2013/8/26-31

 

2013/8/26(月) 担当高谷清師 ?コリ1: 13 賛美 新聖歌166
 「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っている人々に対してパウロは「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」と語る。
 ペトロの語る福音を聞いて心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問う人々にペトロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(使 2:38)と語っている。エフェソの人々もパウロに教えられて「主イエスの名によって洗礼を受けた(19:5)」のである。
 わたしたちのために十字架に架かり、贖いの御業を成し遂げられたのは、そして成し遂げることのできたのはイエス・キリストただお一人だけであり、洗礼は「イエス・キリストの名による洗礼」だけであり、キリストの御体なる教会は一つである。パウロは言う「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ(エペ 4:5)」と。

 

2013/8/27(火)担当 ラウジー満世師 列王記上22:41-54 賛美 新聖歌324・聖歌496
 22:41から列王記下一章まで、ユダの王ヨシャファトとイスラエルの王アハズヤについて記されている。二人の王は対照的であった。ヨシャファトは父と同様に正しい道を歩み、主の目にかなう正しいことを行った(22:43)。他方アハズヤは両親の道を踏襲して悪を行い続けた。ヨシャファトは最終的にダビデの町に葬られたが、アハズヤは短期間の統治に終わり、領地を失い、息子もないままで死んだ。主の目にかなう生涯を生きたヨシャファトは祝福されたが、主に従わなかったアハズヤは祝福を受けなかった。
 正しい生き方とはなんだろうか。世の中にはさまざまな価値観がある。一般的に日本では他人に迷惑をかけない生き方、恥ずかしくない生き方、後ろ指を刺されず、協調性を保つ生き方が評価される。もちろんこれらは大切であるが、聖書はこれらの努力が神の思いと一致したものである生き方を求める。民主的に社会の99パーセントが賛成する目標に対して努力を重ね、多くの人々の賛同を得たとしても、それが神の御心に反しているなら、むなしい。クリスチャンとして、神の言葉を読み、神の目に正しいこと、神が望まれることを追い求め、実行していこう。

 

2013/8/28 (水) 担当 高谷清師 ?コリ1:14-16 賛美 新聖歌389・聖歌502
 パウロは「クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています」と語る。その理由として「わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです」と記している。この時代、すでに教会を誤った方向に導こうとして偽教師が暗躍していた。彼らは主イエスの御名ではなく、自分自身を強調し、聖徒たちをキリストの僕ではなく、自分の僕としようとしたのである。これについてパウロは「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません(ガラ 1:10)」と述べている。今日においても偉大な教師は偉大な教会を建て上げ、その結果、その働きを他人が継承するのが困難な事例を見聞きする。しかしこれは健全な教会の姿ではない。御言葉のみによる教会形成がなされておれば―健全な教会形成がなされておれば―このような事態は起きないはずである。主はエチオピアの宦官のもとにフィリポを遣わして福音を伝えさせ、宦官は信じて洗礼を受けた。彼らが水から上がるや否や、主の霊はフィリポを連れ去った。しかし宦官は喜びにあふれて旅をつづけたのである。教会はキリストの御体であり、その頭はキリストである。

 

2013/8/29(木)担当 ラウジー満世師 列王記下1:1-40 賛美 新聖歌389 聖歌502
 列王記上の最後から引き続いてユダの王ヨシャファトとイスラエルの王アハズヤについて記されている。アハズヤが即位してまもなくモアブがイスラエルに対して反乱を起こし、王自身も病に倒れる。その中で王は病の結末について知りたいと願った。そのとき王は神の人エリヤがいるにもかかわらず、主にたずねることはしないで異郷の神バアル・ゼブブに尋ねようとした。エリヤがその使者に会い、神の言葉を告げたが、アハブは使者を遣わし、神の人に対して降りてくるよう命じた。この命令をエリヤに伝えた二人の使者は火によって焼かれた。
 本来アハブが神の使いに対して命令できるのであろうか。確かに王は国を治める者であるが、あくまでも神に仕える者である。神の言葉を聞くとき、王といえども人間が神に対して命令する立場ではない。私達は気付かずに神に命令していることはないだろうか。嘆願の祈りをささげつつも、どこかでこの祈りによって神を利用し、支配しようとしていることはないだろうか。

 

2013/8/30(金) 担当高谷清師 ?コリ1:17  賛美 新聖歌437・聖歌529
 続いてパウロは「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」と述べる。主は「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ(マコ 3:14)」るため十二人を任命し、使徒と名付けられた。復活された主は昇天を前に「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。(マコ 16:15)」と命じられた。マタイによる福音書においては「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタ 28:19-20)」と命じておられる。洗礼を授け、教えることも重要な働きであるが、福音を告げ知らせることはそれらに先立つ重要な使命である。

 

2013/8/24(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 10:38-42 賛美 新聖歌459・聖歌516
 マルタはイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアと言う妹がいた。マルタはもてなしのためにせわしく立ち働いていたが、マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。それを見たマルタは主に「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と言った。これに対して主は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と教えられた。主はマルタのもてなす心遣いを知り、理解された。しかしそれよりも更に大切な、欠かしてはならない、第一に為すべきことを教えられた。それは主の御言葉を聞くことである。
 マルタもマリアも共にイエスを愛しイエスに仕えた人でした。しかし真にイエスを愛しイエスに仕えるために何を第一にすべきかを自覚すべきです。