2013/9/2-7

 

2013/9/2(月) 担当高谷清師 ?コリ1: 17 賛美 新聖歌320・聖歌494
 続いてパウロは「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」と述べる。当時、世界最高の文化の担い手とされたギリシャ人は修辞学と哲学の研究を称賛していた。コリント人のある者たちも人間の知恵とその雄弁術に高い価値を置いていた。それに対してパウロは「言葉の知恵によらないで」告げ知らせた。この箇所をフランシスコ会訳聖書は「知恵にあふれた雄弁に頼らずに」と訳している。当時の雄弁家たちは耳触りのよい美辞麗句を羅列し、人々を心地よくさせたが、キリストの十字架によって顕された神の恵みは希薄であった。今日においてもいたずらに美辞麗句を駆使し、耳触りのよい話で人々を笑わせ、感動させるが、聞き終わった後の心に空しさをだけを残すようなことはないであろうか。御言葉は聖霊の働きの中で真直ぐに語られ、聞いた人々の内にとどまり、その人の内にあって御業を為すことが大切である。

 

2013/9/3(火)担当 ラウジー満世師 列王記下1:1-17 賛美 新聖歌38 聖歌195
 神はエリヤを通してはっきりとアハズヤに対して語られた。アハズヤがイスラエルの神を無視して異教の神に尋ねようとした、その背信のゆえに王が二度と寝台から降りることはない。病は癒されることがなく、死に至るであろうと。
 果たしてエリヤが告げた神の言葉は成就した。「王はエリヤが告げた主の言葉どおりに死んで」(1:17)と記されている。王の死だけではなく、一章ではエリヤが語ったとおりに二度も五十人隊長がその部下と共に降ってきた火によって焼き尽くされた。
 神の言葉には力がある。神の言葉がそれを託された権威ある者によって語られるとき、それは実現するのである。信仰の目をもってまことの神の使者を見分けよう。また畏れをもって神の言葉を聞こう。

 

2013/9/4 (水) 担当 高谷清師 ?コリ1: 18-25 賛美 新聖歌111・聖歌398
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と語っている。そして『それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」』と言う。イザヤ書において神は「それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。(イザヤ29:14)」と語っておられる。実に、神は驚くべき業――十字架の御業――よって、知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにされた。自らの知恵と行いによって義を得ようとした律法学者やファリサイ人は退けられ、自らを低くして信仰によって神に依り頼む者は義とされた。それによって知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにされたのである。

 

2013/9/5(木)担当 ラウジー満世師 列王記下2:1-25 賛美 新聖歌505 聖歌655
 私たちの生涯には変化がつきものである。私たちは安定と継続を願うが、生涯のあらゆる面において変化は避けられない。そして、時として大きな変化はそれまでの生活を完全に捨て去らなければならないという状況に追い込むことがある。
 エリヤの最期の記事はその弟子エリシャにとっても大きな変化であった。エリヤが天に上げられるとき、主が彼をべテルまで遣わされるときにエリシャは途中でとどまるように命じられる。しかしエリシャは先に何が起こるかわからない、主がエリヤを取り去られるという大きな変化が目前に迫る中で、それでもついていくことを選んだ。そこにはエリヤを慕う思いもあっただろうが、エリシャが主に信頼し、エリヤの後継者としてのしるしを何か得たいという信仰もあった。
 一人の人間として私たちが生きるとき、やはり変化は避けたい。先が見えない時にはなおさら恐怖に襲われる。しかしそれでも私は主に信頼し、従いますという信仰をもって歩みたい。

 

2013/9/6(金) 担当高谷清師 ?コリ18-25  賛美 新聖歌38・聖歌 195
 「十字架の言葉」と、それは「十字架のロゴス」と言い換えることができる。十字架によって啓示された真理の全体である。それは滅びゆくものには「愚か」である。その意味は、彼らが滅びる者であるが故に十字架の言葉は彼らにとって愚かなのであろうか。否、そうではなく、十字架の言葉を「愚か」として扱うが故に、滅びるのである。そして「わたしたち救われる者には神の力」である。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハ 3:16)」と述べている。
 ユダヤ人は数々の預言を通して救い主の来臨を約束されながら、それを肉によって読み、遣わされた救い主を殺してしまった。そして十字架の言葉を愚かなものとしてしまった。しかし、人の思考の範囲を超えて、信仰をもって十字架の言葉を受け入れる者は救われるのである。それは聖霊による恵みの御業である。

 

2013/8/24(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 4:13-14 賛美 新聖歌267・聖歌466
 主はガリラヤへの途上、サマリヤのシカルの町にあるヤコブの井戸のそばで休んでおられた。そこにサマリヤの女が水をくみに来た。この女に主が「水を飲ませてください」と言われたことからサマリヤの女との会話が始まった。この中で主は「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と語られた。
 「この水」とはサマリヤの女がくみ上げた水であり、更に富や快楽を指しています。これらは手にすればするほど渇きを覚えさせ、満足することを知りません。主が与えてくださる水とは、主を信じることによって与えられる永遠の命であり、それは汲めども汲めども尽きるこがのないのです。