2013/9/9-14

 

2013/9/9(月) 担当高谷清師 ?コリ1: 18-25 賛美 新聖歌38・聖歌195
 パウロは「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」と語る。人間は自らの生が絶望に閉ざされ、死に呑みこまれる事実に直面して、それからの救い―希望、安心、平安・・・・・等――を求めて努力してきた。自分たちの力によって神に達しようとしてバベルの塔を企画し、失敗した。近代にいたって、神を捨て、人文主義に走り、科学技術の進展と相俟って自らの能力によって輝かしい未来を築こうとした企ては、二度にわたる大戦と諸紛争、モラル破壊によって破たんし、核兵器、環境破壊は自らの存続さえ危うくしている。世の論客も自ら神に到達し得ず、まして人を神に導くことはできなかった。カルヴァンは『「何よりも哲学者たちの中にこそ、 わたしたちの愚かさの歴然たる証拠が見えすいている」と答えよう。いったい、わたしが先に述べたように、知識の最初の段階からたちまち放埓な・あやまった空論におちこまずにすんだ哲学者はひとりとして見出されないからである』(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P48)と述べている。哲学、宗教、科学・・・・あらゆる分野を通して人間に源を発するものは人を神―救い―に至らせることはできない。それができるのは神から与えられる福音だけである。

 

2013/9/10(火)担当 ラウジー満世師 列王記下2:1-25 賛美 新聖歌1 聖歌477
 引き続きエリヤが天に上げられ、エリシャが後継者として選ばれた箇所を読みたい。エリヤの時代にも、今日でも神の僕がその働きを終えるとき、大きな問題となるのが、後継者である。神の僕が担ってきた働きはそこで終わるのか、あるいはほかの人を通して継承されていくのか。また、継承者として立ち上がる人は誰の権威によってそうするのか。実際に現代の教会やキリスト教団体を見ても難しい問題である。信仰者として私たちが確認すべきことは、働きを引き継ぐ新たなリーダーが神によって立てられた人であるか否かという点である。
 エリシャは拒否されながらもさいごまでエリヤに従った。そしてエリヤとの別れの後、落ちてきたエリヤの外套を取り、エリヤと同様にヨルダンの水を左右に分けることによって後継者としての神の承認が示された。それに続く19節からの奇跡も同様に神がエリシャを後継者として任命したことを示している。
 神の働きを進める場所での後継者は、神の承認が人々に受けいられる御心が示されることが大切である。また大きな変化の背後で必ず変わらぬ神がおられ、すべてを導かれるのである。

 

2013/9/11 (水) 担当 高谷清師 ?コリ1: 18-25 賛美 新聖歌38・聖歌195
 次いでパウロは「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と語る。「宣教という愚かな手段」とは、滅んでいく者にとっては愚かなものであった十字架の言葉である。福音そのもの、つまり、神は十字架にかけられた救い主を通してわれわれを救われるのだというメッセージのことなのである。(ティンデル聖書注解コリント人への手紙第1P50)。このことについてカルヴァンも「神が死すベき人間になられた」とか「生命が死にうち負かされた」とか「正義が罪の外観によっておおい隠された」とか「祝福が転じて呪いにかわった」 とか、しかも、そのようにして「人間が死からあがなわれ、いとも、浄福な不滅の生命にあずかる者とされた」とか、「生命をさずかった」とか、「罪がほろぼされ、正義が勝を占めた」とか、「死や呪いが呑みつくされた」とか、このような事柄ほど、人間の理性にとって異様なことと思われることはほかにない。(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P47)と述べている。神はこの「宣教の愚か」を信仰によって受け入れる者をお救いになるのである。それは聖霊の恵みの御業による以外、なにものでもない。

 

2013/9/12(木)担当 ラウジー満世師 列王記下3:1-21 賛美 新聖歌355 聖歌588
 北イスラエルではアハブの子ヨラムが王となった。アハブの死後、モアブが反乱を起こし、ヨラムはその処理にあたらなければならなかった。そのときに彼はユダのヨシャファトに助けを求めた。アハブの時代の出来事と重なるが、少し状況は異なる。彼らは戦いに向けて出発してから主の御旨を尋ねもとめた。今回、イスラエルの王はエリヤの後継者であるエリシャのもとを訪ね、御心を求めた。
 ヨラムとヨシャファトははじめに神の御旨を求めることなく戦いへと出て行った。しかし、敵に対峙する前に困難に会い、神に尋ねもとめるべきことを思い出した。私たちも人生経験を積んでいくと過去の経験を基にして「今はこうすべきだ」と判断することができるようになる。それも経験から得た学習である。しかし、常に私たちの生涯の導き手は神であることを覚えたい。過去の経験を私たちの行動指針とするのではなく、あらゆるときに神の導きを求める姿勢を持って今日も歩もう。

 

2013/9/13(金) 担当高谷清師 ?コリ18-25  賛美 新聖歌302・聖歌487
 パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」と述べる。『すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った(マタ 12:38)』、「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った(マタ 12:38)」と記されているように、ユダヤ人は事あるごとにしるしを求めた。ギリシア人は思弁的哲学に沈溺していた。両者にとって十字架につけられたキリストはつまずかせるもの、愚かなものであった。しかしユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵である。この召しについてパウロは「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です(エペ 2:8)」と述べている。わたしたちが今、救いの内に入れられているのはただ神の恵みによることを覚え、自らを低くして神に感謝しょう、神をほめたたえよう。

 

2013/9/14(土)担当 高谷由紀子師 ヨハ 4:13-14 賛美 新聖歌327・聖歌691
 主イエスと弟子たちの一行は湖を渡ろうとして船に乗り、出港した。間もなく湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。弟子たちの中には漁師であった者もいて操船術にたけた者もいたが、あらしの激しさにどうすることもできず、恐怖に陥った。主は?と見ると眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と言い、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
 イエスは天地を統べ治める権威をもつお方です。どんな恐怖や危険に遭遇する時にも、主を待ち望む信仰をもちましょう。