≪デボーションの友≫2022/10817-22

2022/10/17(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:26-29 聖歌(総)218  聖歌243

 キリストを着ることについて近藤勝彦氏は更に言葉を継いで

「旧約聖書において「着る」ことは、すでに興味深い重要な表現として用いられていました。その一つイザヤ書六一章一0節に注目したいと思います。「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」。キリストへと洗礼され、キリストを着ているのは、「救いの衣」を着せられたのです。神が「恵みの晴れ着」をまとわせてくださったのです。ですからキリストの中へと洗礼され、キリストを「救いの衣」として着た人は、キリストとの密接な関係に入れられ、そのために神の子とされたのですから、「主によって喜び楽しみ、神にあって喜び躍る」でしょう。私たちは、洗礼以来キリストを着ています。キリストを着て今日に至っています。それによって神の子とされ、どんな時にも、根本的には喜び楽しみ、喜び躍る信仰者の人生を生かされています。」(十字架のキリスト以外に福音は無いP78)

と述べておられる。阪神淡路大震災において最愛の弟君を亡くされた森裕理氏は心にあふれる涙をこらえて主への賛美の歌を歌い続け、絶望にある人々を励まし続けられた。それは目の前の悲しみを越えて、主に在って輝く御国における再会の希望の光の故であったであろう。ここに「キリストを着せていただいた者」の希望と喜びがある。

2022/10/18(火) 担当 ラウジー満世師 創世記19:1-11 賛美 聖歌(総)473 聖歌460

 19章にはソドムとゴモラの町が一夜にして滅ぼされたことが記されている。18章ですでにこれらの町が罪に満ちていることは伝えられているが、神はその中の正しい者を守ると保証された。夕方に町の門に着いた旅人をロトは家に迎え入れるが、そのほかの町の男たちはこぞって彼らをなぶりものにするためにやってきた。神のもとにまで届いていたこの町の罪深さの状況が、この突然の訪問者を通して具体的に述べられている。確かにこの町は悪に満ちていて、裁きが与えられるのも理解できる状態であった。しかし確かにここにはロトという正しい人がいた。この訪問者はアブラハムに与えられた約束の通り、正しい者を守った。不思議な方法で今まさに町の男たちに襲われようとしているロトをその危険から守った。

 神は18章でのアブラハムとの約束を守り、実行される。神は正しい者が一人でもいるならば、それが悪の満ちる真っ只中に存在する人であってもその正しい人を救われる。悪が満ちる中で正しさを貫くことは無意味に感じる時がある。しかし神は確かに見ておられる。主の前に罪を離れて正しく生きることを求め、行い続けよう。

2022/10/19(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:26-29  聖歌(総)205  聖歌236

 キリストを着ることについて近藤勝彦氏は更に言葉を継いで

「アダムとエパは、罪に堕ちたとき神の前から身を隠しました。罪ある自分たちは裸で神の御前に出られないと感じたからです。神の前に何を身にまとって出たらよいのかという問題があるでしょう。人類始祖の問題は私たち誰もの問題です。神はエデンの園からアダムとエパの二人を追放するとき、皮の衣を作って着せたと言われます。何を身にまとうかは堕罪以来の人間の問題なのです。キリストを身にまとうことは、「第二のアダム」であるキリストによる罪の赦しを身にまとうことです。パウロは洗礼によってキリストと共に罪に死に、新しい命に生きる、キリストと共に神に対して生きるとも語りました(ロマ六・八)キリストを身にまとうということの意味の大きさを思わせられます。」(十字架のキリスト以外に福音は無いP78-79)

と述べておられる。マタイは王子のための婚宴の席に集められた人々で婚礼の礼服を着ていない者について「王は側近の者たちに『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」(マタ22:13)と言ったと記している。キリストを着ずして神に受け入れられることはない。

2022/10/20(木)担当 ラウジー満世師 創世記19:10-14 賛美 聖歌(総)588 聖歌710

 ソドムにこの突然の訪問者が現われてから実際に町が裁きの火に包まれるまでたった一夜の出来事であった。この切迫した状況の中で正しい者を見極め、保護するのは急を要した。それにもかかわらず、主はロトの家にその時に居合わせなかった身内をも含めて守ろうと言われた。二人の客の言葉の通りにロトの婿たちには救いの選択肢が与えられた。彼らの意向次第で滅びから逃げるチャンスが与えられた。しかし婿たちはロトの申し出に耳を貸さなかった。真剣に訴える裁きの警告と、救いの勧めを彼らは冗談としか受け止めなかった。罪に溺れている人々には裁きの警告も届かない。神を認めることもない人々が警告に耳を貸し、悔い改めることがいかに難しいかを思い起こさせる場面である。

 神は罪びとにさえも悔い改めて生きる道を示される。今の時代にもこの婿たちの立場に置かれた人々がたくさんいる。一人でも多くの罪びとが神の警告の言葉に耳を貸し、命を得ることが出来るように祈り、伝えよう。

2022/10/21(金) 担当 高谷清師 詩 71:19 賛美 聖歌(総)751 聖歌593

 詩人は「神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。」と詠う。この箇所を口語訳聖書は「神よ、あなたの大能と義とは高い天にまで及ぶ」と訳し、新改訳聖書は「神よ。あなたの義は天にまで届きます。」と訳している。カルヴァンは

「神の義は高き所にまで挙げられる、と言う。ついで、神は大いなるわざをなしたと言い、最後に、驚嘆の念をこめて、だれがあなたと等しいでしょうかと叫び出す。その効果がわれわれにとって、身近で明白であるごとき神の義は、高き所にある。ぜならば、われわれの感覚では、これを把捉し得ないからである」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇ⅡP387新教出版社1971)

と述べている。パウロは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ロマ 1:17)と記し、「しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。」(Ⅰコリ  2:9)と記している。我々の思いを越えた神の恵みに感謝し、常に恵みの内を歩もう。

2022/10/22(土) 担当 高谷清師 創18:22―33 賛美 聖歌(総)232 聖歌255

 「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」と訴える叫びが主に届き、主はその訴えが真実であるかどうかを確かめるためにソドムの方へ向かおうとしておられたが、それに先立ってアブラハムにそのことをお告げになった。それに対してアブラハムは主に執り成しの祈りを捧げる。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。:正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」これに対して主は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」と言われた。更にアブラハムは「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。「もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」アブラハムは「四十人しかいないかもしれません。」「三十人」「二十人」「十人」。主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」アブラハムは粘り強く祈り、主はそれに応えてくださった。絶望的な状況の中に在っても祈り続けよう。