≪デボーションの友≫2022/10/10-15

2022/10/10(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:26-29 聖歌(総)626  聖歌588

 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」と語ったパウロは、続いて「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」と語る。イエスは十字架を前にして「 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。(ヨハ 17:21)」と祈られた。キリスト・イエスに対する信仰を告白し、洗礼を受けた者はキリストを着ている―キリストの恵みの内に移され、キリストの内に存在する者とされている―のである。

2022/10/11(火) 担当 ラウジー満世師 創世記18:16-22 賛美 聖歌(総)654 聖歌609

 突然の訪問者たちがアブラハムのもとを旅立とうとしている。その時に主はご計画をアブラハムに明かすべきかどうか考え、そしてご自分が選んだ者にこのことを話された。主はご自分が選んだ者を信頼してくださる。そして主のご計画を明らかにし、驚くべきことにこのご計画について問いを発し、願いを述べることを許してくださる。神がアブラハムに明かされたその理由はアブラハムに与えられたその使命の故であった。それは彼に続く選びの民に将来にわたって主の道を守らせることと正義と公正を行わせることである。これまでは主が約束を与えることを中心に語られてきたが、このところに至って約束を受けた人々には正義と公正を行うことが求められているとはっきりと語られる。

 のちの時代の預言者たちも社会において神から示される正義と公正を守り行うことを求められた。国が滅ぼされて捕囚を経験する前の時代には正義と公正が行われていないことが罪であると明確に指摘されている。私たちも神のみ言葉の基準において正義と公正を行おう。

2022/10/12(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:26-29  聖歌(総)488  聖歌471

 ローマの信徒への手紙においてパウロは「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。(ロマ13:12ー14)」と述べている。近藤勝彦師は

「キリストへと洗礼され、キリストを着ていることは、キリストの恵みの力の領域に移され、キリストの救いによって身を包まれることですから、それは同時にキリストの力やキリストの義、キリストの愛や忍耐によって身を包まれることでもあります。キリストを着ることがキリスト者の地上の人生を試練や誘惑の中で守らないはずはありません。洗礼によって身にまとったキリストが、キリスト者の日々の歩みを守ります。」(十字架のキリスト以外に福音は無いP249-250)

と述べておられる。ヨハネは「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(Ⅰヨハ 1:7)」と述べている。信仰により、キリストを着、キリストの恵みの内を歩もう。

2022/10/13(木)担当 ラウジー満世師 創世記18:23-33 賛美 聖歌(総)627 聖歌589

 主がアブラハムに明かされたご計画は罪に満ちたソドムとゴモラの町を滅ぼすことであった。神はアブラハムが問うことを許してくださった。23節の「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。」という問いであった。これは単にアブラハムの甥ロトがいる町を滅ぼすのかという問いではなかった。愛と義の神が正しい者まで悪人と共に滅ぼしてしまうことは神の御性質に対立するものではないのかとの根本的な問題を問うものであった。神は正しい者の人数が50人から始まってどんどん少なくなっても、もしそこに正しい者がいるなら滅ぼさないと語られる。10人で終わらずにもう少し交渉してほしかったと感じるだろうか?この対話で伝えられているのは、神は正しい者を罪びとのさばきの犠牲にはなさらないということである。実際にこの町の罪を行う人々は神の招きを拒んだ後に死ぬことになったが、この町にいたロトと娘たちは神の言葉に従順に従ったので命を守られた。

 神は義なるお方である。今日でも神は義なるご性質において妥協なさらず、それを曲げることはなさらない。だからこそ私たちは主に頼ることが出来る。主にふさわしい者となろう。

2022/10/14(金) 担当 高谷清師 詩 71:17-18 賛美 聖歌(総)547 聖歌525

 詩人は「神よ、わたしの若いときから/あなた御自身が常に教えてくださるので/今に至るまでわたしは/驚くべき御業を語り伝えて来ました。」と詠う。彼は若き日に神ヤハウェの「不思議な業」を同胞に歌って聞かせる詠唱者として召され、祈りの内に神の黙示と導きを与えられ、それを人々に語り伝えて来たのである。高齢となった今も神が自分を捨て去られることが無いようにと願い「わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください。」と祈る。

 御言葉を語り伝えるように召された者は与えられた御言葉を正しく語り伝えるために様々な学びをする。しかし、それだけでは御言葉を語ることはできない。祈りの内に、御霊の確証を与えられて初めて語ることが出来るのである。また、御言葉を語り伝えるように召された者も有限者である。年老い、体力の衰退を覚え、組織の一員としての活動が困難となる時が来る。しかし、残された分に応じて御言葉を証しさせていただくことは彼の祈りであり、願いであり、務めである。

2022/10/15(土) 担当 高谷清師 黙3:14-22 賛美 聖歌(総)250 聖歌273

 この箇所にはラオディキアにある教会にあてたメッセージが記されている。ラオディキアにある教会の人々は「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言って自己満足に陥っていた。人がそのような状態に陥る時には形式的な礼拝、形式的な祈りは献げられるが、神に対する飢え渇きは失われる。そのような状態に陥る時、真実の命、霊的命は失われる。このような状態を神は「あなたは、冷たくもなく熱くもない。」と言われる、そして「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」と言われる。そして主は「裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」と言われる。

 飢え渇きをもって主に祈り求め、戸を開き、主を迎え入れ、キリストのいのちに生かされる者となろう。