2018/12/24-29

2018/12/24 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11: 28-37 賛美 新聖歌 35
 兄弟ラザロを失った姉妹達は深い悲しみに包まれていた。マルタの知らせによってイエスのもとにやってきたマリアは、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスがご覧になると彼女の目には涙が溢れ、彼女たちを慰めようとして集まっていた人々も泣いていた。この情景をご覧になったイエスもまた涙を流された。聖書は「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブ 4:14-15)と述べている。私たちの救い主イエスは神の御子であられますが、肉をとり、人となり、世の底辺を歩み、人の悲しみと苦しみのすべてを味わってくださったお方であり、それ故に私たちはのすべての悲しみと苦しみをイエスに告白し、慰めを得ることが出来るのです。

2018/12/25(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:26-39 賛美 新聖歌374
 まだモアブに対するさばきの言葉が続いている。さばきを受けるモアブは徹底的に荒廃する。それは偶然に起こるものでもなければ、神の気まぐれによって容赦なく裁かれるわけでもなかった。これほどの荒廃を経験するにはそれなりの理由があった。モアブはこれまで高慢であり続けた。人に対してのみならず神に対しても横柄にふるまい、その口から出る言葉には真実がなかった。さらにモアブの偶像礼拝と、その結果として主を認めない姿勢もまた神の目に悪とされた。
 大変高慢であったモアブの人々は神の裁きを受けてその自信や栄誉が取り去られた。高慢な心を人は誰も砕くことができないとしても、神はそれを砕かれる。神の前には誰も高慢であり続けることはできない。へりくだること、これが神によって造られた者のあるべき姿である。

2018/12/26(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:38-44 賛美 聖歌 273
 ラザロの墓にやってこられたイエスは「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。」ラザロの姉妹たちを慰めるために多くの人々が集まっていた。それらの人々は姉妹たちに同情し、共に涙を流した。しかし彼らはそれ以上、何もすることが出来なかった。ラザロを死から解き放ち、よみがえらせることの出来たお方はイエスだけであった。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ 14:6)と教えておられる。永遠の命はイエスに在り、イエスを信じる信仰によって私たちに与えられるのである。今日も信仰によって歩もう。

2018/12/27(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:40-47 賛美 新聖歌261
 モアブを滅ぼす現実の敵の様子が獲物を捕らえる鷲のように語られている。勇士でさえも脅えてしまい、国の姿を保つこともできない。それは主に対する高ぶりの結果であると明言されている。モアブもかつて力を誇っていたときは自分自身を過信し、神に頼ることや神を認めること、まして礼拝することなど心にも留めなかった。しかし徹底的な神の裁きを受けたとき、彼らは何も対策を立てることはできなかった。そしてこの裁きを与えられた神はその理由、モアブの高ぶりや偶像礼拝など、を明確に語っておられるので、誰もそのさばきを不当であると訴えることすらできなかった。しかし神はやはり愛に富み、憐れみ深いお方である。このモアブに対しても終わりの日に回復されると約束しておられる。
 神はイスラエルの民のみならず、世界中の民を心にかけておられる。そして世界中の民が神を認め、礼拝することを期待しておられる。たとえ人々が神に背き続けてさばきを受けるとしても最終的にはどのような人にも赦しと回復を備えてくださっている。神の愛の大きさと深さを知り、私たちも同じ心をもって人々に仕えよう。

2018/12/28(金) 担当 高谷清師  詩 40:8-9 賛美 新聖歌 37
 「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」と詠った詩人は「そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み」と詠う。この箇所をカルヴァンは「そこでわたしは言いました/「見よ、わたしは行きます、/書の巻に、わたしについて記されています。わが神よ、わたしはあなたを喜ばせ奉ります。わたしはこれを望みます。あなたの律法は、わたしの腸の直中にあります」 と。」と訳している。そして「人間の行ないがどのように美しい外観や光輝を備えていようとも、それが心の活きた根底から発出したものでないならば、単なる仮面にすぎないことになる。さらにまた、服従が心の思いから生ずるのでないかぎり、律法を守ろうと、手や足や目を立派に整えようとも、無益なことになる。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P41新教出版社1971)と述べている。エレミヤは「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレ 31:33)と記している。聖霊に心を開き、御言葉を胸に刻み、御言葉を生きよう。

2018/12/29(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 5:1-11 賛美 新聖歌 395
 主は群集に話し終わった時シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。漁師たちは夜を徹して漁をしたが何もとれず、疲労困憊し諦めていました。シモンたちは漁の専門家であり、漁については知り尽くしていました。心のなかでは「主イエスといえどもこの道については経験豊富な自分たちの方が上だ」と思っていたかもしれません。しかし、シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、イエスの言葉のとおりにするとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになりました。人間の限られた知識、経験ではなく、主の言葉に信頼し、従うことが大切です。”,,509″