2018/12/31-2019/15

2018/12/31 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11: 38-44 賛美新聖歌 458

 ヨハネは「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。」と記している。「心に憤りを覚え」と言う語は33節でも使われていた。この語について森田武夫師は「人間をこのような悲惨に閉じこめてしまうサタンの力に対する主イエスの激怒と解し、サタンと格闘なさる主イエスの御姿を見るのが正しいのではなかろうか。」と記し、更にイエスの悲しみは、すでに彼らと彼ご自身の悲しみの根源に対する厳しい反対であり、この現実に対する決然とした否定で、あるからである。彼が他のすべての人々よりも平静に、この現実と彼らの驚きを見つめ給うとき、彼はすでに、この現実をこの世から放逐することを開始してい給うのである〈邦訳『私にみ言葉をください』2、新教、二六二―二六三ページ〉。(説教者のための聖書講解NO311821日本基督教団出版局1980)」と記しておられる。私たちは何人に対しても、いかなる罪人に対しても憤ってはならない。神が彼を愛しておられるからである。しかし、人を罪に誘い、死に閉じ込めるサタンに対しては、憤り、イエスの御名によって立ち向かわなければならない。

 

2019/1/1(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:1-6 賛美 新聖歌474

 アンモンはモアブ人の兄弟であり(創19:30-)、イスラエルともつながりがあった。この国はヨルダンの東に位置し、モアブと共に古い時代からイスラエルと国境を接し、紛争が絶えなかった。王国時代にダビデが勝利をするが、その後も争いは続き、両国間には様々な政治的な駆け引きが常に存在した。しかし、ここでアンモン人が神の裁きを受けるのは、そのような政治的な駆け引きの故ではなかった。アンモン人もまたイスラエルの土地を占領したと告発されているが、それはその土地を与えた主なる神の主権を侵したからであった。また、彼らはイスラエルの地の侵略が可能であるのは豊な土地と宝の故であると誇っていた。

 モアブ同様にアンモンもまた主なる神の主権を受けいれず、自らの富と力を頼りとしたことが罪とされている。彼らが主を信じて共に歩んでいる民ではなかったが、やはり主に造られた人々は主の権威を認めつつ、神をあがめて歩むことを求められる。今日生きる私たちもまた神に造られたがゆえに神を認め、神を愛して従うことが主の御心である。この年も主と共に歩もう。

 

2019/1/2(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:38-44 賛美聖歌 397

 イエスはラザロを生き返らせる奇跡を行う前に「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」と祈られた。イエスは神の御子であり、父によって世に遣わされたお方であった。父と御子は一つであり、御子の心は父なる神の心であり、御子の祈りは常に聞き入れられた。御子の働きは父なる神の働きであった。しかし、世には「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。またファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(マタ 9:34)と言っていた。このような人々が、イエスが神によって遣わされた、真の神の御子であられることを知り、信じる者となる為にイエスは祈られたのである。私たちも、イエスが神の御子であり、真の神であられることを瞬時も忘れることなく、疑うこと無く、信じよう。

 

2019/1/3(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書49:7-22 賛美 新聖歌366

 ヨルダンの東、モアブの南に位置するエドムの名はその先祖エサウに由来し、彼ら自身もイスラエルとの関係を知っていた。エドムはイスラエルにとって長年戦い続けていた近隣国であった。また、知恵のある民として知られていたが、その知恵さえもやはり人間の知恵に過ぎず、神の前には全く無力である。この言葉の中で、エドムの南に住むデタンの住民たちに対しては神の裁きの巻き添えにならないように逃げよと警告されている。神は誰彼構わず裁かれるのではない。裁かれる必要のない民には逃れの道を与えてくださる。それゆえエドムに対する徹底的な破壊とさばきはさらに鮮明になる。

 エドムもまた自分の力に頼り、高慢であったために罰せられる(49:16)。エドムについてはっきりしていることは、神ご自身がこの裁きを行われるという点である(49:8, 10)。神を認めない人々はいつの時代にも自分の力を信じて、神を認めず、神の存在を求めない。しかしそれで表面上問題ないように見えても造り主である神は常に主を認め、従うことを求めておられ、定められた時に一人一人がその責任を問われるのである。

 

2019/1/4(金) 担当 高谷清師  詩 40:10-11  賛美 新聖歌 155

 詩人は「大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。」と詠う。「正しく良い知らせ」と訳されているところを口語訳聖書は「救についての喜びのおとずれ」と訳し、カルヴァンは「あなたの義」と訳し、次節において「あなたの真実と救い」と記している。そしてカルヴァンは「大いなる集会という語は、〔法廷あるいは(ラテン文のみ)〕市場に集まる人々のごとき、 世俗的な群衆と解さるべきではない。それは教会を意味している。それは(われわれも知る通り)聖所のあった場所で群れ集うのである。そこで見よ、ダビデは神の義をその心の中に隠匿することが、けっしてなかったと言う。彼はひとりびとり相互の建徳のために、それを厳かに宣ベ伝えることが必要なのである。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P43新教出版社1971)と述べている。イエスは重い皮膚病を患っている人を清めた後、彼に「「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」(マタ8 4)と命じられた。与えられた神の恵み、救いと憐れみの御業は教会において証しし、互いに分かち合おう。それによって御名が崇められ、教会に賛美が満ちるために。

 

2019/1/5(土)担当 高谷由紀子師 マコ 10:13-16 賛美 聖歌 490

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。この様を見られたイエスは憤り、弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われた。神の国を受け入れるのは子供のような人、即ち、謙遜であり、神に全く信頼し、素直な心を持った人である。

 私たちの住む世は特殊詐欺等、偽りに満ちた世界である。それ故主は「「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタ10:16)と教えておられる。私たちは全く主に信頼し、主から与えられる知恵によって歩みましょう。