2018/12/17-22

2018/12/17 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 11:14-15 賛美 新聖歌 285
 イエスはラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。その間にラザロは死んだ。イエスは弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう。」と言い、ラザロの死を告げられた。そして「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」と言われた。イエスはベタニアから遠く離れたところに滞在しておられたが、べタニアの状況を、そしてラザロの状況を知っておられた。更に、ご自分がこれからべタニアに行ってなそうとしておられることを、そして、それが弟子たちの信仰の成長に資するものになることをご存知であった。ラザロの死は彼らの家族にとって、更にラザロを愛する人々にとってつらい体験であった。イエスは知らせを受けて直ちに駆け付け、癒しの御業を行い、ラザロを死なせないこともおできになった。しかし、そうはされなかった。パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:3-5)と述べている。試練の中にあっても主を見上げ、信仰をもって歩もう。

2018/12/18(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:11-17 賛美 新聖歌258
 モアブへの言葉が続いている。歴史上、モアブはその立地条件のゆえに大国同士の大きな戦いに巻き込まれることは少なかった。全体的に見れば戦争による国土の荒廃を経験することは、大国の通り道にあたるペリシテやユダなどよりもはるかに少なかった。それ故にモアブの人々は、自分たちは安泰だとどこかで安心しきっていた。彼らは立地条件の良さのゆえに危険にさらされることが少なかったという与えられた平和を、自分たちが勇敢な兵士であるがゆえに平和を維持してきたという考え方にすり替えてしまった。そのような誤った自信を持つとき、彼らは自分を頼りにし始め、真の神など不要と考える。しかしこのモアブに対しても、世界の主権者である神はご自身の計画を持っておられる。
 神を知らない人々、神を認めない人々は過去の実績に基づいて自らを信頼し、すべてが自分の考えるとおりに進むのが当然であると思っている。しかし、神はすべての人々に対して力を持っておられる。今日、主を認めようとしない人々も神が背後におられて導いてくださることを知り、傲慢な生き方から離れるようにと祈りつつ、み言葉を語っていきたい。

2018/12/19(水) 担当 高谷清師 ヨハ 11:17-27 賛美 新聖歌 339
 イエスがべタニアに到着されたのはラザロが葬られた四日後であった。出迎えたマルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言った。これに対してイエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われた。するとマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。更にイエスが「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と語られるとマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と答えている。しかしラザロの墓の前に立たれたイエスが「その石を取りのけなさい」と言われるとマルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。マルタはイエスが癒し主であり、生きている病人を癒すことが出来るお方であると信じていた。また終わりの日の復活を信じていた。更に、イエスを「世に来られるはずの神の子、メシアである」と信じていた。しかし今、目前で「死人をよみがえらせることの出来るお方である」とは信じることが出来なかった。信仰の歩みは高遠である。一つの峰を越えたかと思うと目前には更なる高嶺が聳え立つ。それら一つ一つを御言葉に照らされ、聖霊に導かれ、助けられつつ登っていくのである。今日も弛み無い歩みを続けよう。

2018/12/20(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書48:18-25 賛美 新聖歌427
 モアブの滅びが語られている。過去の歴史を見ても、実際にモアブが滅ぼされるということは現実味をもって受け入れがたいことであった。しかしこの現実は淡々と告げられる。モアブが滅びたという事実を周りの国は逃れてきた住民によって確認する。敵に襲われた町々の名も列挙されている。これを逃れうる町はなかった、そして主がこのモアブの破壊を断言された。
 人間がどれほど信頼を置いていても、神は淡々とさばきを実行される。実際にモアブの滅びも神の望むとおりに実現された。さばきが実際に臨むときになったら、もはや前もって告げられていた主の警告を深く考え、悔い改めるチャンスはなかなか与えられない。まだ「時」がある間に主のみ言葉を聞き分け、神の主権を認め、罪を悔い改めて主に従うという決断が求められる。

2018/12/14(金) 担当 高谷清師  詩 40:7 賛美 新聖歌 390
 詩人は「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「主よ、あなたはわたしの耳を開いてくださいました。その結果わたしは、あなたが犠牲に関してわたしに命ぜられたことすべてが、どのような目的に沿ってであるかを理解できるようになりました。犠牲はそれ自体としては、あなたを喜ばせ奉ることはないのです。あなたは霊であられますので、このような地上的な初歩の事物を喜びとされず、肉や血をも必要とされません。それゆえに、あなたは何かいっそう高く、いっそう卓越したものを求められます」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P39−40新教出版社1971)と述べている。サムエルは「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(?サム 15: 22)と述べている。また、イエスは「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ 4:24)と教えておられる。外形を整える歩みではなく、御言葉に聞き従い、霊と真理とをもって歩もう。

2018/12/15(土)担当 高谷由紀子師 ルカ 12:4-7 賛美 新聖歌 311
 イエスは「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」(ルカ 21:12)と語っておられます。弟子たちの将来に迫害が待ち受けていることを知っておられたイエスは弟子たちに「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」と教えられました。世の迫害者は体を殺しても、それ以上何もできない者たちです。しかしイエス様は殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っておられるお方です。そのイエス様は私たちを愛し、私たちのすべてを知り、その血によって贖い、永遠の命を与えてくださるお方です。本当に恐るべきお方はこのイエス様です。”,,519″