2016/8/15-20
- 2016.08.15
- ディボーションの友
2016/8/15(月) 担当 高谷清師 ?ペテ4:15-16 賛美 新聖歌 165
「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」と述べ、キリストの苦しみにあずかる者に顕される神の祝福について述べたペトロは「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい」と語って注意を喚起する。泥棒することによって・世の悪を行うことによって・干渉すること・・・等世俗的罪によって受ける苦難はキリストのみ名の故の苦難ではない。これらの行為によって受ける苦しみは神の御名を汚すのである。ぺトロは召し使いたちへの勧めの中で「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」(?ペテ2:19-20)と述べている。神の栄光を汚す罪を犯さないように注意しょう。
2016/8/16(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書45:1-8 賛美 新聖歌270
主が力強く宣言されている。ペルシャ王のキュロスは当時の帝国勢力図を塗り替えたが、このキュロスも実はその背後におられる神の御心の内に導かれ、用いられているのだ。世界中の人々がキュロスを見るときに真の神、主を知るようになる。そして神に背き続けてきたイスラエルもイスラエルの神を知るようになる。比べる者なき唯一の神がイスラエルと共におられる。この神は光だけでなく闇をも創造された。
イスラエルを回復なさる神が繰り返し民に語られるのは、ご自身だけが唯一無比の神であり、人々はそれを知るようになるという点である。これは当時のイスラエルにだけ求められることではない。今この世界で何が起こっていようと、あらゆることは神の御手の中にある。真の神を認めることができる信仰の目を持ちたい。
2016/8/17 (水) 担当 高谷清師 ?ペテ4:12-14 賛美 新聖歌 429
ぺトロは「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。」と語る。この手紙が書かれた時代、それは迫害の嵐の吹き荒れていた時代であった。キリスト者として生きようとする者は迫害を覚悟しなければならなかった。主イエスは「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハ 15:18-19)と語っておられる。パウロもまた「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(?テモ3:12)と述べている。いつの時代にも信心深く生きようとする者は迫害を受けるのである。日本においても秀吉の時代から今日まで程度の差こそあれ、キリスト者として生きることの困難は続いている。それ故、自らがキリスト者であることを社会において公言するのをためらう者は多い。しかし主は「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マコ 8:38)と述べておられる。それ故、私たちは社会に在って恐れることなく主を告白し、主を証ししていくものとなろう。
2016/8/18(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書45:9-13 賛美 新聖歌411
「災いだ」という語り掛けで、厳しい言葉が始まっている。しばらく聞かれなかった口調である。力の無い、作品に過ぎない人間が、創造者であり作者である神に口答えするのかとしてイスラエルは叱責されている。創造者が造ったものに疑問を投げかけたり、意見したりできるのかと厳しく咎められている。おそらくキュロスについての宣言(44:24-45:1)を信じることができない人々に対する厳しい語りかけだろう。聖なる神、創造者としてすべてを造られた神がなさることに疑いを持つのではなく、神のことばを受け入れて信じなさいと、力強く述べられている。
人はこれまでの常識とは異なることを神が宣言され、新しいことをなさるときに驚き、慎重になり、過去にはなかったことだから神がこの様なことを言われるはずがないと考えて不信仰になるかも知れない。それ故に聖霊の導きを求めて神の御声を聞き分け、過去に例のないことであっても神から出たことであるならば信じることができる霊的な分別と信仰とを持ちたい。
2016/8/19(金) 担当 高谷清師 詩編25:15−21 賛美 新聖歌 222
ダビデは「わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。」と、信仰を告白した後、「御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち痛みからわたしを引き出してください。御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。」と祈っている。そして「御覧ください、敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、不法を仕掛けます。」と、現状を訴える。そして「御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し恥を受けることのないようにしてください。あなたに望みをおき、無垢でまっすぐならそのことがわたしを守ってくれるでしょう。」と祈る、この箇所についてカルヴァンは「神がわれわれを、その保護のもとに置かれるためには、神の約束に支えられて、われわれが神の守りのもとに、みずからを平安に保つのでないかぎり、われわれの側の論点が正しい、というだけでは十分でないからである。それゆえに、有徳で賢い人人が、その主張を弁論するに当たっては、彼らが自分自身の霊に信頼し、あるいは幸運に依存するかぎりは、必ずよい結末を見るとは、[断定]できないのである。それだから、神をわれわれの誠実さの保護者・弁護者とするためには、第一にわれわれの敵に対する誠実と廉直の点で、われわれ自身を治めようではないか。ついで,全面的に神の守りに身を任せようではないか。」と述べている。(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P311新教出版社)と述べている。主イエスは「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタ5:44)と教えられた。パウロも「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ロマ12: 14)と述べている。敵対する者にも愛をもって対処できるよう、主に求めつつ歩もう。
2016/8/20(土) 担当 高谷清師 ヨハ 15:1-5 賛美 聖歌 273
主はこの箇所において、私たちと主との関係について教えておられる。主はぶどうの木、そして私たちはその枝にたとえられている。そして枝は幹につながっていなければ実を結ぶことはできない。よく、「キリストの教え」という言葉が使われる。しかしキリストのことばは単なる教えではない。ヨハネはこの福音書の初めの部分において「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハ1:4)と述べている。実に、キリストは私たちの命であり、キリストから離れることは命を失うことである。信仰によってしっかりキリストにつながっていよう。”,,1004″
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