2020/1/27-2/1

 2020/1/27(月) 担当 高谷清師 ヨハ16:29-33 賛美 聖歌 501

 イエスの言葉を受けて弟子たちは「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」と語る。この箇所についてカルヴァンは「使徒たちは、なんらかの成長を感じて、キリストの言葉もいまは自分たちには少しもわかりにくくはない、と真実に証言することができたと理解しなければならない。もっとも、かれらは次の点で、思いちがいをしていた。実際以上に、その言葉を理解している、とかれらは考えていたのである。そのあやまちは、かれらが、聖霊の賜物がどんなものか、知らなかったから生じた。だから、かれらは、まだその時でないのに有頂天になっているのである。(中略)しかし、かれらは、まだその認識からはるかに遠いところにいた。かれらは、将来キリストがかれらにとって何者になるか、理解していなかったのである。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下新教出版社1965下P534535)と記している。また上田光正師は「ヨハネによる福音書では、すべての時はしばしばイエスの十字架の時と重なり合い、それと同時的に語られる。」(説教者のための聖書講解No3280日本基督教団出版局1980)と述べておられる。弟子たちがこのような信仰に至ったのは聖霊降臨以降である。本書が書かれたのは聖霊降臨以降であり、私たちも同じ恵みの中に立っている。常に聖霊に導かれて歩もう。

 

2020/1/28(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書4:1-3  賛美 新聖歌166

 この言葉は富裕層の女性に対して語られている。これは驚くべき呼びかけで始まる。アモスは女性たちを「バシャンの牝牛ども」と呼ぶ。何という侮蔑的な呼びかけだろうか。バシャンは良い牧草地が広がる地域で、そこでは見事な牛が育った。良質な餌を与えられて肥え太る牛のように、この女たちは夫が得た豊かな財産でセレブな生活を楽しみ、肥え太っている。その裏で富裕層から搾取されて苦しむ貧しい人々に憐れみを示すことはない。夫は我儘放題の妻の欲求を満たすためにさらに貧しい者から搾取する。この告発により、アモスは社会的な正義が行われないのは社会に直接かかわる男性たちだけの責任ではなく、女性の影響力も大きく、女たちもその罪を免れ得ないことを鋭く描いた。

 間接的に社会に関わる人々は得てして現状に対する自己責任を認識しない。しかし、神は弱者からの搾取の上に成り立つ愛と憐れみのない社会が構成された裏には背後で自分のことしか考えない者たちの罪があることも見ておられ、この人々がその罪に向き合うことを求めておられる。

 

2020/1/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ16:29-33 賛美 新聖歌 281

 弟子たちの言葉を受けてイエスは「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。」と語られる。この後、イエスが捕えられると弟子たちはイエスを捨てて逃げ去った。裁判を見守っていたぺトロは、イエスと一緒にいたものであることを指摘されると呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。復活された主は、このような弟子たちにご自分をあらわし、尊い使命を委ねられた。そして聖霊を注いで彼らを不動の者とし、その使命を全うさせてくださったのである。肉なる人間は自分を罪から救うこともできない者である。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ロマ 7:24)と告白しなければならない存在である。しかしペトロは「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(?ペト 5:10)と述べている。神はご自分を信じる者、ご自分により頼む者を完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないものとしてくださるのである。神をより頼み、信仰に生きよう。

 

2020/1/30(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書4:1-3  賛美 新聖歌372

 贅沢な暮らしを謳歌し、その陰で貧困に苦しむ人々の存在にも気付かないで彼らを搾取し続ける女たちに対して、神は最終的には彼らが裁きを受けると言われる。夫を陰から操り、贅沢を楽しんでいる女たち自身が主人ではなく、真の歴史の主は神であることを示される。彼らは強制的に「城壁の破れから引き出され」(4:3)る。そして裁きの地へと投げ出される。ここでは具体的に裁きがどのように起こるのかは記されていない。しかし、神を恐れることなく我儘によってすべてを手に入れようと傍若無人な女性たちに、真の主は神であることを示し、また、イザヤやミカが語ったように社会における正義と公正を行い、弱者を憐れむべきことを思い起こさせる。

 人々は自覚なくして他者を虐げ、気付かぬうちに神の言葉に逆らう。しかし神は正義を行われる方である。神の義はどのような中でも貫かれる。神の聖には妥協がない。私たちはどれほど正しく、聖く歩もうと努めていても気付かぬうちにそこからもれる者である。日々主の前に跪き、聖霊の導きにより、神の助けによって歩もう。神の主権を認めながら。

 

2020/1/31(金) 担当 高谷清師 詩 50:23 賛美 新聖歌 21

 「告白をいけにえとしてささげる人は/わたしを栄光に輝かすであろう。」と語られる。この箇所を口語訳は「感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる。」と訳し、フランシスコ会訳は「いけにえとして賛美をささげる者をわたしはもてなす。」と訳している。「告白をいけにえとしてささげる人」・「感謝のいけにえをささげる者」・「いけにえとして賛美をささげる者」即ち、神を至高者としてあがめ、神の前に自らを低くする人々、神に正しい礼拝をささげる人々に対して神は「わたしは神の救いを示そう。」と語られる。鍋谷尭爾師は「新約聖書において、感謝の土台と焦点は十字架に現されました。」(『詩篇を味わう?いのちのことば社 2006、P93)と述べておられる。十字架の贖いの恵みを受け入れ、神を賛美し、感謝を献げる人々に神は救いを顕してくださる。常に感謝と賛美をもって御前に歩もう。

 

2020/2/1(土) 担当 高谷由紀子師 ?テモ3:14-17 賛美 聖歌 196

 テモテは敬虔なキリスト者であった祖母ロイスと母エウニケから聖書の言葉を聞き、教えられて育ちました。神の言葉に養われて立派な伝道者に育ったのです。この聖書についてパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と述べています。また詩篇には「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105)と記されています。神の霊の導きのもとに書かれた聖書はわたしの道の光であり、わたしの歩みを照らす灯です。日々聖書に親しみ、その内を歩みましょう。