2015/6/22-27

2015/6/22 (月) 担当 高谷清師  ?コリ16: 5-9  賛美 新聖歌 323
 この箇所においてパウロは、コリント訪問を含む今後の計画について語る。この計画においてパウロは「マケドニア経由でそちらへ行きます。マケドニア州を通りますから」と言う。コリントに行くには海路をとることもできた。そのほうが時間的にもはるかに短く、安全性も高かった。しかしパウロはマケドニアの諸教会を訪問し、励ますことを選んだのである。これらの計画は諸教会を思いやるパウロの愛から出たものであった。この計画についてパウロは「主が許してくだされば」と言う条件を付ける。パウロは、神が尊い御子の血潮をもって贖い取ってくださったものであることを片時も忘れることはなかった。そして自らを「キリスト・イエスの僕」と呼んだ。「僕」は常に自分の意思で行動する権利を持たない。主人の意志に従うのである。私たちの計画はすべて神と人に対する愛から出たものであるべきである。そしてそれは神の許しのもとに行われなければならない。

2015/6/23(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書1:2-9 賛美 新聖歌 342
 イザヤの預言は冒頭から厳しい言葉で始まる。神がユダの罪を指摘しておられる。あまりの厳しさの故にこれはほかの国々に向けられた言葉ではないかと考えたくなるが、やはりユダに向けられている。彼らは神がご自分の「子」(1:2)として育んできたにもかかわらず、罪を犯して堕落した。彼らはロバですら持っている知恵を持ち合わせておらず、罪を犯して神に背を向けた。
 イザヤはユダの罪を指摘するときに単なる感情の問題として扱っているのではない。彼らが神に背いたのは彼らに知恵が欠けており、自分の主は誰かを知らなかったからだとされている。時々、神に従うことは理性と対立するから知性はじゃまであるかのように語られる。しかし、知性もまた神に与えられたものであり、それを用いて責任を持って神に従う道を歩み取っていくことが必要である。

2015/6/24(水) 担当 高谷清師 ?コリ16: 5-9  賛美 新聖歌 317
 この中でパウロは「旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない」と述べている。「ついでに」という言葉は日本国語大辞典によると「ある物事をするときに、その機会を利用して別の物事をするさまを表わす。ちょうど良いその機会に。そのおりにいっしょにつづけて。ついでがてら」と言った意味である。つまり、それが主目的ではないという意味である。パウロはコリントの人々と、そのような会い方をしたくないというのである。先年、私たちの教会である先生を特別集会の講師としてお迎えした時のことである。集会が終わって、「どこかにご案内しましょうか」と申しました。当時、講師をお迎えして集会が終わった後、当地の名所等を案内するのは習慣であった。しかしその先生は「わたしは招きを受けた時主の前に祈りました。そしてこれが神様から出たものであることを知ってこの招きを受託しました。従って家を出てから帰り着くまで伝道の働きであるので、伝道以外の事はしたくありません」と言われた。私はこの言葉に深い感銘を受けた。私たちが伝道のために会うとき、それが個人であれ、団体であれ、相手の人格を尊び、主体として正面から向き合うことが大切である。

2015/6/25(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書1:2-9 賛美 新聖歌 427
 「聖なる方を侮り、背を向ける」(1:4)イスラエルの姿はどのようなものだろうか。あらゆるところに傷を負い、必要な手当てもされずに捨て置かれている。さらにそのような状態の中で敵が攻めてきて略奪していく様子を見てもなすすべがない。それでもなお自分の罪の現実に目を留めない。それゆえに癒しの必要にも気付かず、神に立ち帰ることもない。そのようなユダがなお生き延びられるのだろうか。み言葉によるとそれはただただ万軍の主の憐れみによってのみ与えられているのである。主がユダのために生存者を残されなかったならば彼らは創世記に記されたあの罪深い町ソドムとゴモラ同様に既に滅ぼされていた。
 日々私たちは生きている。それは実際には日々「生かされている」のである。神の憐れみによって赦され、生かされている。主の憐れみを覚えて感謝し、また隠された罪がないか、主の前に問いつつ整えられて前進しよう。

2015/6/26(金) 担当 高谷清師  ?コリ16:5-9  賛美 新聖歌 410
 パウロは「しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。」と述べている。三年間にわたってエフェソにおいて御言葉を伝えていたパウロは、大きな伝道の機会となるであろう五旬祭前にエフェソを離れるわけにはいかなかった。使徒言行録19章に記されているように、エフェソにおれる働きは、共に働かれる聖霊によって大きな成果を見た。それと同時に反対者たちもたくさんおり、彼らによって騒動が引き起こされた。パウロはエフェソを離れず、自らこれに対処したのである。伝道において多くの成果を得ようとするとき、反対者もたくさんいることを知らなければならない。彼らへの対処は聖霊によってなされるべきである。

2015/6/27(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハネ9:1-3 賛美 新聖歌165
 主イエスの一行は通りすがりに生まれつき目の見えない人に出会いました。弟子たちは、
彼の目が見えないのはだれかの罪の結果なのかと尋ねました。すると主は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(9:3)とお答えになりました。
 人はそれぞれに自身の健康のこと、生活の問題、人間関係などと痛みを抱えています。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていたヨブでさえも度重なる災難に遭遇しました。また、多くの迫害に遭いながら世界を駆け巡って福音を述べ伝えていたパウロも、体に一つのとげが与えられたと言っています(2コリ12:7)。これらのことを見る時、私たちを襲う様々な試練や苦難の一つ一つが神の経綸の内にあることがわかります。私たちの身に起こるすべてのことは全知全能なる神の御手の中にあって、神の栄光が現されるためであるといわれた主イエスの御言葉を信じて歩みましょう。”,,1036″