2012/9/3-8

 

2012/09/03(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8: 13   賛美 聖歌 623
 主イエスの到来によってもたらされた新しい契約は古い契約にとってかわった。しかしこの時代、アロン系の祭司職,地上の聖所,レピ系の犠牲など,古い契約に基づき制定されたものがなお、存在していた。しかしそれは間もなく消えうせるのである。
わたしたちのために主が十字架に架かり、血を流し、命を捨てることによって成し遂げてくださった救いは完全なものであって、信じる者が救われ、神の民とされたことは確実である。そしてそれは完全な神の平安と祝福を約束する。しかし私たちは今なお苦難の生活を強いられている。パウロは「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる(?コリ13:12)」と言っている。主が定めておられる「そのとき」には「完全な神の平安と祝福」が成就されるのである。「そのとき」を望みつつ今日も希望をもって主の道を歩もう。
 

 

2012/09/04 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下7:1-18 賛美 聖歌588
 ダビデはついにサウルとサウルの家との戦いを終え、またペリシテなどの敵との戦いが一段落した。そのときに彼は主のためにふさわしい家を建てようと考えた。これはダビデがするにふさわしい働きに見えたため、ナタンも最初同意した。しかし神の御心はこれとは異なるものであった。
 神はイスラエルの民をエジプトから導き出して以来、御自分は定まった住処を持たなかったと語られる。歴史を振り返ると、少なくともシロには神の家が建てられたはずであった。しかし、神はここでご自身の性質を啓示しておられる。神は場所に縛られない。特定の場所にとらわれず、自由に住む場所を選ばれる。それゆえ、神はご自身を呼び求める人の祈りに答えてあらゆるところでその臨在をあらわされる。
 私たちが今日祈るところで、主は私たちに出会ってくださる。まさにインマヌエル(「神われらと共にいます」)の主がともに歩んでくださる。
 

 

2012/09/5 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 9:1-10 賛美 聖歌 265
 最初の契約にも幕屋が設けられ、礼拝の規定と地上の聖所が備えられていた。第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていた。この幕屋が聖所と呼ばれていた。第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられていた。そして祭司たちはいつも第一の幕屋に入って礼拝を行ったのである。しかし至聖所には年に一度、それも定められた日に大祭司だけが、必ず自分自身のためと、民の過失のために献げる血を携えて入ったのである。このように最初の契約のもとでは、人は神に近づくことはできなかった。しかし主が十字架上で息を引き取られた時「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け(マタ 27:51)」たのである。すなわち、新しい契約のもとではキリストの血を通して誰でも神に近づくことができるのである。
 

 

2012/09/06(木)担当 高谷満世師 サムエル記下7:1-18 賛美 聖歌593
 ダビデが主の神殿を建てたいという申し出に対して、主はご自身がダビデのために家を建てると約束された。かつて羊の群れを飼う者であったダビデを、主はイスラエルの指導者とされた。その日以来、主はダビデとともにおられ、数々の敵を倒してくださり、必要に応じて助けを与えてこられた。この日までダビデに対して真実であられた神が、今ダビデの家を確かに建てると約束してくださった。
 この約束はダビデが主に対して完全に服従したから与えられたのではなく、ダビデの姿が美しかったからでも、ダビデにリーダーとしての人間的魅力があったからでもなかった。神はダビデの功績や人徳によって祝福を変えられる方ではない。ただ神の憐れみのゆえにダビデを祝福された。
 私たちも自分の徳や行いのゆえに主の祝福を受けているのではない。ただ神の恵みと憐れみによって救われ、導かれている。
 

 

2011/09/7(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 8:8-12   賛美 聖歌 447
 著者は「この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです」と述べる。人が自由に神に接近するのを真に妨げるのは,内的なもので,物質的なものではない。それは,良心の問題なのである。人が躊躇なく自由に神に近づき,神に受け入れられる奉仕と礼拝を献げるのは,良心がきよめられているときである。雄牛ややぎの血は、この点に関しては役立たない。動物の犠牲やそれに伴う他の物質的な儀式は,せいぜい儀式的,象徴的きよめをなすだけである。しかしヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます(?ヨハ 1: 7)」と述べている。御子イエスの血だけが私たちの良心をもきよめ、完全にすることができるのである。
 

 

2012/08/11(土)高谷由紀子師 マタイによる福音書18:1-4 賛美 聖歌490
 弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。そこでイエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」言われました。
 弟子たちは自分が偉い者になりたい、人に認められ、称賛されて他の人より上になりたいと思っていました。人は誰でも表面では謙遜そうにしていても心の底には自分こそ偉い者であるという思いが潜んでいます。しかし聖書は「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる(?ペテ5:5)」と記しています。わたしたちは日々神様の前にへりくだって信仰と従順をもって励みましょう。